日光中禅寺湖付近から流れ出る渡良瀬川は、豊かな水で水域の農民や川漁師の生活を支えてきた。明治18年、その清流が白くにごり、魚が腹を見せて浮かび上がった。古河鉱業の足尾銅山から流れ出る鉱毒が原因だった。周辺89ヶ村40万人の人々の水田や畑に作物が育たず、魚もドジョウもとれず、トンボも住まなくなった。
耐えかねた被害農民3000人は、東京の古河鉱業本社に押しかけ、銅山の操業停止を要求したが逆に抜刀した警官や憲兵に追われて流血の惨事となり、百余人が逮捕された。
第1回の衆議院選挙で当選していた田中正造は、火のような弁舌で鉱毒への対策を迫ったが政府は古河とグルだった。
正造は命を懸けて「天皇直訴」に踏みきる。世論はわきたった。だが政府は、鉱毒被害の焦点である谷中村を貯水池にして田畑や家を水没させ、周辺町村の洪水を調節するという住民分断策を強行してきた。
63歳の田中正造は谷中村に住みつき、強制取り壊しにもひるまず仮小屋を建て、抵抗をつづける農民たちとともに不屈にたたかう。権力の横暴に屈せず仕事に生きる農民たちの姿に明日の日本を正造は見るのだった。 |