オホーツクの岸辺に
上湧別町は北緯44度、東経143度。北海道の北東部、オホーツク海岸から8粁内陸に入った所にある人口約6,500人の小さな町である。北海道の首都札幌からは290キロメートル離れている。
現在の主産業は農業と酪農業で豊かな自然に囲まれた静かな風景を形づくっている。
1897(明治30)年、本州の各県から集められた200の家族1,285人が長い船旅を経てこのオホーツク海岸に上陸。次の年にはさらに199の家族1,174人が上陸した。
この人々は屯田兵とその家族であった。
屯田兵とは日本の近代化をめざして発足した明治政府が日本の北辺北海道を外国の侵略から守り、北海道に農業を定着させようとして作った制度であった。
家族の中の男子1名が兵士として毎日教練を行い、妻や両親、子ども達は開墾の仕事をした。
移住者にとって上湧別は異国であり、文明から遠く離れた未開の地であった。小さな木造の家は与えられたが周囲には熊や狼が走り回り、食べる物が少ない。何よりも暖かい本州に暮らしていた人々にとって、寒さがいちばんの問題だった。彼らにとって上湧別はまるで北極のように感じられた。
実際、彼らは、家の中の小さな焚き火と薄い毛布だけでマイナス20度近くの冬を過ごさなければならなかったのだ。
小さな子どもまで一緒に働いた。夏の開墾も重労働だった。
直径1メートル以上の大木を切り倒し、地面に深く張った根を掘り起こし、笹や灌木を取り払ってから、やっと地面を掘り起こすことができる。
鋸と鍬と鎌だけで、彼らは広い未開地を耕作地に変えなければならなかった。
意外なことに、一番恐ろしかったのは蚊や蚋(ぶよ)のような人間の血を吸う小さな虫であった。こうした困難を乗り越えて、彼らは多くの土地を開墾し、現在の上湧別町の基礎を形づくった。
屯田兵とその家族が移住してから百年たったことを機会に、このような町の歴史を後世に伝えようとして作られたのが上湧別町博物館である。
建物は芸術品
博物館は1996年8月1日会館した。
建物の設計者は、京都の渡辺豊一氏である。彼はこの博物館の設計思想について、次のように述べている。
「北海道開拓は人類史と同じように、ユートピアを作り出そう夢見て行われたはずだ。したがって、博物館は永遠なるユートピアが結晶した現象としての空間でなければならない。だから、
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外部からの来館者に感動を呼び起こすものでなければならない。
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展示空間全体も劇場のように変化に富み、さらに入場者を母体が胎児を抱くような、包摂的空間にしなければならない。
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また、凹凸のない広大な平坦地の上湧別にふさわしい建物として、変化に富んだ優美なものでなければならない。」
こうして、とうきび畑に忽然と出現した博物館の建物は、賛否両論の様々な議論を呼んだ。このことは建物が議論に値するもの、つまり新しい価値が表現されているものだからで、芸術であることを証明する。
或る物にふさわしくない物は、ふさわしくないというだけで人目をひくから、宣伝効果もある。世界中の目を引かせるためには、世界に通用する力を持った作品でなければならない。
この博物館はそれに耐え得る芸術作品である。
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