1997年1月16日、総行程1.035km。延べ日数19日間で遂に遂にドーム基地に我が38次隊は到着した。地平線の向こうにボヤーっとした物が点々と見えだし、雪上車が進むに連れて徐々にはっきりとした建物の輪郭をなして、ドーム基地は雪原の真ん中にポツリと建っていた。「大草原の小さな家」という物語があるがドーム基地はまさに「大雪原の小さな家」であった。これから1年間過ごさなければならない我が家である。
余裕を持ってこの日はドーム基地から10kmばかり離れた所でキャンプとなった。「しらせ」を離れて20日も過ぎると、さすがにみんな手慣れたもので、橇の切り離し・燃料補給・長距離通信用のHFアンテナの設置・飲料水用の雪の採取・炊事作業・雪上車の点検等々流れるように作業が進んでいく。毎日々ただ雪の上を走行して、食って寝るだけの単調な生活とも今日でおさらばかと思うと動作にも自然気合いが入ってくる。
今夜のメニューはすき焼きである。オーストラリアの牛ヒレ肉を一人あたり1kg位スライスして、残り少なくなってきたタマネギをどっさり、干し椎茸と冷凍の隠元や絹さやを青味に入れるだけの、シンプルといえばそれまでだが焼き豆腐も白滝も長葱もすべて無しの「超手抜き牛肉ごっそりすき焼き」を、これ又オーストラリアで積んできた、約一ヶ月前の卵にどっぷりと浸して隊員諸氏、旺盛な食欲で胃にほおりこんでいく。夕食時の話題は自然に明日から始まる、ドーム基地の食生活に流れていった。「越冬中は、松阪牛とか米沢牛とか食べられるんでしょ?・・・日本ではあまり高い肉は食べられなかったから楽しみだなあ・・・・」と極地研から参加している大気と気象担当の平沢隊員。「肉はなんでもあるよー、牛は松阪・米沢・三田からAUビーフまで積んできたし、黒豚・いのしし・鴨・馬・七面鳥からチキンまでありとあらゆる物を調達してきているよー」と調子のいい私・・・ただしすき焼きをしても生タマネギは今日が最後で、白滝も長葱も無し、おまけに卵も明日からすべて冷凍になるなんてことは、まだこの時点では秘密である。10kgくらいあった肉も残り少なくなり、ビールと酒とウイスキーとワインと焼酎ととにかくこの日食前・食中・食後酒として出した酒の他に、隊員がそれぞれ持ち寄った酒の酔いで頭がふんわりとトロトロと流れ出すにつれ、つらかった20日余りの内陸旅行の事が思い出されてくる。出発前夜、昭和基地からVHF無線で「北の国から」を餞別として熱唱してくれた同じ海上保安庁の田中 結隊員。冷凍品の搬出時、「しらせ」に戻ったとき垂れ幕付きの大送別会を開いてくれた、海上自衛隊「しらせ」4分隊のみんなの顔、100トン余りの荷物をわずか13〜14名で35台余りの橇に積みこんだ、「地獄のS16作業」、出発時軽油の不完全燃焼の煙が立ちこめた雪上車の車内で、軽い一酸化炭素中毒にかかり寝込んでしまった佐藤隊員。燃料をなぜか5リットルしか給油しないで出発し、わずか1kmで止まってしまった103号車。「こんな経験しないでもいいことですよー。ほんまは来たくなかったんですよー。なんでこんな所まで来て観測するんですかー」と朝から晩までぼやきにぼやいていた報道の宮嶋カメラマン。アグネスラムと山口百恵の水着のポスターがまだ現役でがんばっていた、ー35℃の雪の中に埋もれている「みずほ基地」。30次隊で参加した時にこのみずほ基地でー40℃の中、外で半切りドラム缶で炭火を起こし、バーベキューをやったことをふと思い出した。旅の思い出と言えば、自然とか隊の具体的な運用とかが普通はでてくるのだろうが南極に来てみると、思い出すのはなぜか自分たちに関わってくれた人たちのことばかり・・・・。 これも南極観測隊がハードウェアに頼っている部分が実は少なくて、大きな流れは海上保安庁がサポートしていた1次隊からの「偉大なる手工業制」が未だに踏襲されているからだろうか・・・。とにかくなつかしいあの顔もこの顔も今は1000kmの彼方である。
「ドーム基地」 提供:第38次ドーム越冬隊
注意:写真はすべて国立極地研究所に属します。
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