2001.7.3号 07:00配信
先日、ふるさとの関西へ家族で帰省した。週末を挟み、金、月と会社に休暇をもらって3泊4日の日程である。 なにせ年に1回の大イベント。両方の実家に泊まってさんざん世話になり、友人たちともこの機を逃すまいと会う。せっかくだから、京都などで日本情緒に触れたい、電気街の日本橋にも行きたい、おいしいものも食べたい、などと欲望はひたすら膨れ上がるのだった。 とても3泊4日の日程とこの懐じゃ欲望が満たされるわけはない。当たり前だ。だが、少々のことなら親や太っ腹な友人たちが「いいからいいから」と甘美な言葉を投げかける。車で連れ回してくれ、メシまでごちそうになることも。 といっても、友人に対してはもちろん「借り」という形で。友人「こんどそっち(オホーツク)へ遊びに行ったときは面倒見てな」。私「おお、任せとけ!」。私はいったい何人の友人にカニをごちそうする約束をしただろう。彼らが大挙してオホーツクへ押し掛けてこないことを祈るばかりだ。 ともかく帰省の度に、珍客である私たちは、いろんな人から歓待を受ける。本当にありがたい。 ただ、毎度困るのがその後。帰省からUターンしてこっちへ帰ってきた後だ。 まさに、胸いっぱい、腹いっぱいの数日間を過ごした後の、現実とのギャップ。これを埋めるにはかなりのエネルギーが必要だ。旅行から帰ってきた後の比ではない。たいてい1週間は、ぼーっと頭に霞がかかったような状態で過ごすことになる。 今回、そのぼーっとした頭で初めて感じたことがある。帰省とは、ひととき子供に帰ることなんじゃないかと。 周囲にいるのは、親や本当に気心の知れた友人たち。そこには、なんの駆け引きも、打算もない。私も、日ごろ幾重にも身につけている鎧を脱いで、無防備な裸の自分に戻る・・・子供の頃そのまんまだ。 親元から、関西から離れて7年。すっかり自立したつもりでいた私には少々皮肉だが、このぼーっの原因の一端が見えた気がする。 (tomy) |