1999.10.23号 20:30配信


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オッサン・オバハンの修学旅行 その一





目の前のあまりの広大な風景に私はただただ驚いていた。

高校時代「イムジン川」というフォークソングがあり、仲間達とよく歌った。そのうちこの歌は放送禁止となってしまい、今となっては歌詞はうろ覚えであるが「イムジンガン水清く、蕩々と流る、水鳥自由に・・」の部分は常に私の頭の片隅に残っていて、勝手にイムジンガンのイメージを膨らませていた。私のイメージでは絶壁に近い峡谷の間を澄み切った水が堂々と流れている川・・・・それがイムジンガンであった。

イムジンガンは漢字で「臨津江」と書く。ハンガン(漢江)の支流で丁度我々が訪れた統一展望台の辺りで合流して、さらに大きな川となる。この川の北側がもう北朝鮮だ。統一展望台から見るイムジンガンは川幅が五百メートル以上もあり、両岸に広がる草地を入れると目の前二キロくらいの壮大な空間が広がっている。ハンガンとの合流地点ではただひたすら広い景色になっていた。緑豊かで、川の水も豊かである。前夜の雨のせいもあろうが水清くという感じではなかった。シドニーの入り江よりも、ニュージーランドのフィヨルドの海よりもさらに巨大な風景だ。この旅で私のデジャ・ヴュを確かめることが目的ではなかったが、あまりに私の想像と違うこの景色に私は唖然とした。確かに韓国はアジア大陸の一部であり、大陸的な川があって当たり前なのかもしれないが、高校時代から頭の中で作り上げてきたイメージとの相違に驚いた。こういうある意味での思いこみへの裏切りが旅の楽しさなのかもしれないと考え、私は眼前に広がる大陸の川を楽しむことにした。頭の中ではずっと「イムジンガン水清く蕩々と流る」とリフレインしていたが・・・。

イムジンガンは思ったほど水深がないように見えた。これなら歩いて越境するのも容易だろう。冬には完全に凍結するから更に簡単なことだろう。そのためもあろうし、北の脅威に対する防衛の拠点でもあるからか岸には膨大な量の有刺鉄線が張られている。牧場にある有刺鉄線は道産子として見慣れてはいるもののここのものは大分様相が違う。三十センチくらいの有刺鉄線の輪になっていてそれが何重にもなっている。けっしてこの中を潜り抜けることなどできないであろう。この地域では常に臨戦態勢にある・・・ということを実感した。

統一展望台はイムジンガンとハンガンが合流する小高い山の頂上にある。ソウルから北に六十キロくらいの地点にあり、意外と都心から近いと感じた。北を望む面は曲面ガラスになっていて視界がよい。階段状になった席に座り、ビデオでの説明まである。私達が訪れたとき、日本人の多くの団体が入ってきたので日本語での説明もあった。対岸にある立派なマンションは北朝鮮がこの展望台に来た人たちに自国の裕福さを示しているものらしい。建物は建っているがその中では空き家も多いとのこと。また主席の別荘というのもあった。この展望台の中では我々は韓国側の情宣情報を信じざるを得ないのがなんとも面白い。この韓国側の情報によると北では薪炭による暖房・調理のため山には樹が少ないということだ。確かに私の目で見ても禿げ山が多い。

風を感じようとガラス張りの展望台から外に出た。

このところ天気の悪い日が続き、このようにきれいに北朝鮮が見えたのは十五日ぶりだということを屋上休憩所のおじさんが教えてくれた。晴れ男の強運を誇りつつ、ナマの北の景色を楽しんだ。広いイムジンガンから立ち上る水蒸気のせいか十月中旬というのに春霞のようにも見えた。ガラス越しではないこの景色は本当に雄大で大陸的だった。しかし山裾に広がる韓国側の岸辺にはびっしり有刺鉄線の壁ができている。北朝鮮からの情宣活動の放送もかすかに聞こえ、韓国側にも見えるようにと大きなハングル文字の看板も見える。ガイドの人に聞いたところその看板には「希望の地」とか「素晴らしい国」と書いているらしい。一所懸命なのだろうが、どこか漫画チックでさえある。

眼前に広がるポッカリした空間のあまりの「のどかさ」を感じつつ、ここに着く直前、車で走っている我々に路上で機銃を向けていた韓国軍兵士の姿を思い出した。片側五車線くらいのとても広い道路の歩道上で徴兵されたであろう若者達が機銃を構えていた。珍しい光景なので私は早速彼らにカメラを向けたのだが、ガイドの朴さんが「危ないです、写真撮ってはダメでーす」と大声で警告し、平和呆けした我々がとても驚いたことを北の景色を見つつ思い出してもいた。韓国・北朝鮮問題は簡単に解決できないことなんだ・・・ということも感じさせられた時でもあった。こういう体験をすること、これが今回の我々の目的であった。

そもそも今回我々が幼なじみ、友人たちで韓国を訪れようとしたのは単なる思いつきの観光旅行ではない。

我が家で幼なじみ達と酒を呑んでいたとき、いろいろ話題がでた。南京大虐殺、従軍慰安婦、天皇制問題、天皇の出自等々、酒を呑んでいるせいもあろうが大いに語り合った。そのうち「おまえと話していると楽しいな〜、会社の人とこんな会話をしたら自分が変わり者であると判断されてしまう」という発言が出た。自営業・自由業歴二十年近くの私としては驚いた。私は誰とでもこのような感じで話していたのだから・・・。私など世間ではきっと変人扱いされているのだろうな・・・と考えさせられる発言であった。

呑んでいくにつれ、幼なじみ・友人も含め、我々が生まれる前の歴史を語りつつ、旅をしたらどんなに楽しいだろう・・・という話になってきた。私も想像してつい楽しくなった。お調子者の私は「それならオッサン・オバハンの修学旅行と銘打って、仲間達と韓国に行くというのはどうだろう」と提案した。隣の国でありながらなかなか行く機会が無かったし、同根同種の民族のためかつい意識的に避ける癖がついているのかあまりに隣国のことを知らない現実があった。報道からはつい反日・排日というムードが韓国に広がっているらしいという雰囲気でもあった。それならばこの際、この同根同種の人々と直に話し、自分の目で少しでも韓国を見たいと痛切に感じた。教科書問題でも従軍慰安婦問題がようやく語られようとしていたし、私から見たら「従軍慰安婦なんていなかった」とする自由主義史観者たちの主張など許せるものではなかったから、そういうことを語るためにもちょうど良い機会だと思ったし、日韓併合と称して日本人がかつて朝鮮の人たちに犯した罪を知るにも絶好の機会だと思ったのだ。

我々が高校・大学時代を過ごした昭和四十年代はまだ若者達が社会問題に目を向けていて、いろいろなことを語り合った。論客に不足はない。左よりの者、右よりの者、リベラルを自認する者など、頭の中でメンバーはすぐに決まった。

その酒の席のあとしばらくして友人達にこの旅のあらましを伝えた。働き盛りの友人達のことだから忙しくて参加できないという断りを想定していたが、さすが私の友人達である。アッという間に「かならず行くよ」というメンバーが集まった。こうなると韓国を目指して気持ちはルンルン気分である。ここ一年くらいはこの修学旅行のことを考えるだけで楽しめた。子育ても終わりつつあるのか今までは家庭中心の生活を強いられていた反動もあるのかもしれない。子供が親と一緒に遊んでくれなくなりつつあるのも良い方向に作用したのかもしれないが・・・・。

この旅の成功に向けて、便利だな〜と再確認したものはインターネットだった。私の個人用隠し掲示板に参加要請も出したし、E-mailで細かな打ち合わせもできた。こりゃ便利だわ・・・ということを痛感した。深夜にならないと帰宅しない友人に連絡するにもE-mailだと心おきなくできた。ジャブの打ち合いのように、韓国問題など掲示板で討論もした。各自この旅に向けて資料なども読んでいることも感じられたから私も論破されないように資料を読んだ。学生時代に戻ったような期間であった。

ただひとつ誤算だったことは十月というのは秋の行楽シーズンで、ツアーが混んでいるということを甘く見ていたことだ。価格が発表になるまで予約しなくてよいと信じ込んでいた私達にとって予約が取れないかもしれないという最後の生みの苦しみを乗り越え、ようやく今回の旅が実現した。

十月八日、北海道組五人が大韓航空で千歳を発った。同日東京から新潟を経由して韓国入りした友人もいて金浦空港で久しぶりの再会をした。こう見えてもオッサン・オバハン達はなかなかやるのである。たった四泊五日の旅ではあるが皆仕事の調整だけでも大変だったことだろう。かくなるうえは韓国を存分に見るぞ・楽しむぞと堅く心に誓って空港から最初の一歩を踏み出した。

時差のない国・韓国に最初の一歩を記したのは一九九九年十月八日、午後六時のことであった。

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