韓国最初の夜はぐっすり安眠。部屋のカーテンを開け放つと外は青空が広がっていた。深夜二時頃就寝したのだが七時には起きた。普段は寝坊の私だが旅にでると時間がもったいないので早起きをする。同室の者も起き出したのでホテルの隣のコンビニへ朝食の買い出し。日本ののり巻き、あんパンのようなものも売っていた。飲み物として牛乳、ジュース、ウーロン茶のようなものをゲットし、ホテルに戻り、全員で朝食。のり巻きのご飯は日本ほど酢が効いてないがまあまあの味である。失敗したのは色だけでウーロン茶と信じたものでこれは杏のようなジュースであった。甘くて飲むのを止めてしまった。朝食六人分全部で一万二千Won、日本円で千二百円ほどの質素かつ華麗な朝食であった。幼なじみ同士の旅なのでこんな朝食でも何の衒いがないのが嬉しい。
朝食の最中、今日の大まかな予定の打ち合わせをし、八時半ホテルを出発。今日からはまったくのフリー、自分たちの好きな旅ができる。さあ思う存分歩き回るぞっっと意気込みも新たである。とは言え私にはチト心配があった。ダイエットとこの旅に備え、夏までは一日一時間の散歩か一時間のスイミングを自分自身の課題として実行していて、良い仕上がりだったのだが九月初旬に引いた風邪が長引き、九月は仕事時間を除くとほとんど安静状態で韓国を自由に歩き回るには不安要素を抱えたままであった。しかもこの旅のモットーとしてなるべくタクシーなど乗らず、自分の足と公共交通機関を利用して歩き回ろう・・・とこの旅の説明で宣言していた私としてはプレッシャーのかかる初日となってしまった。
気温は二十度あまり。訪韓前はもっと寒いだろうと長袖なども荷物に入れてきたのだが、半袖でも十分な気候である。私なぞフリースジャケットまで持ってきてしまった。(^^;)
ホテルの左方向に地下鉄の駅があるというので歩き始めた私たちだが、十分過ぎてもまだ駅らしいものが見つからず、不安になってきた。道を歩いている地元の人に尋ねるとやはり方向はあっているらしい。そのまま更に五分ほど歩いてようやく地下鉄駅「長漢坪(ChongHangPyon)」に到着。都心外れに位置し、しかも最寄り地下鉄駅まで徒歩十五分もかかるなんて、さっすが〜、私たちのホテルはCグレードだ〜と変なところで感心してしまった。
地下鉄駅に到着して安心したのもつかの間、今度はハングル文字だけの世界に突入してしまった。私の買ったガイドブック「地球の歩き方」には地下鉄路線図の駅名にはすべて漢字表記がしてあり、旅の前にはこれならなんとかなるだろう・・・と安易に考えていた私たちではあるが、切符の自動販売機の上にある路線図には当然のごとくハングル文字しか書かれていなかった。うぉぉっっぅうっどうしよう。英語表記もあるにはあるがとても小さな文字だ。そろそろ目に来はじめている我々にはチトきついものがあった。現在地の駅をまず見つけ、それから今日の最初の訪問地「景福宮(Kyonbokkun)」を探す。ようやく見つけ、嬉々として切符を購入しようとした。だがコインを入れてもコインが戻ってくる。「どうして?なぜ?」の世界。周りで我々の悪戦苦闘ぶりを見ていた女子高生が切符の買い方を教えてくれた。驚くことにソウルの地下鉄ではコインを入れる前に「500Won切符を一枚」とか「800Won切符を二枚」とかボタンを押して宣言してからコインを入れないとダメなのだ。う〜ん、国によって違うな〜。【注・あとで分かったことであるがソウルの地下鉄はかなり外れのほうまで行っても500Wonで大丈夫。日本円にすると五十円くらいだから日本と比べると格安といえるだろう。】
無事切符もゲットし、自動改札を抜け、どちらのサイドの電車に乗るかを考えながらブラットホームへ。九時七分ようやく韓国の地下鉄初乗車に成功。途中「鐘路3街(チョンノサムガ)」で乗り換え、九時四十一分、最初の目的地「景福宮」に到着。慶南ホテルを出発してから一時間あまりの小旅行という感じになってしまった。
景福宮は李成桂が1392年に李氏朝鮮王朝を興し、その二年後に都を漢城(ソウル)に定めた際、正宮として建てたものである。日韓併合時は朝鮮総督府が建てられた場所でもある。今は朝鮮総督府は取り壊されていて、「国立中央博物館」が隣接している。地下鉄「景福宮」駅は博物館の駅でもあるからか地下道にも韓国の歴史あるレリーフで飾られていたり、小展示などもあったりと雰囲気ある駅であった。出口案内に従い歩いていくと自動的に景福宮への入り口に辿り着いた。その出口で驚いたのは警官が五人横配列で五列くらい並んでいて、しかも盾まで構えていて何か物々しい感じがした。そういえば地下道にも二人連れの青ワイシャツ姿の警官がたくさんいたな〜、韓国は物騒な国なのだろうか・・・と思ってしまった。【注・帰国後分かったのだがこの日は韓国最大の仏教寺・曹渓寺(チョゲ寺)で大騒乱のあった日なので特別物々しかったのかもしれない】
その出口を出ると急に視界が広がり、驚いた。市の中心部から一キロくらいのところにある景福宮だが林立する都市空間に穴がポッカリ開いた感じである。しかもとても広大だ。歴史を感じさせる建物が多く、韓国の修学旅行か研修旅行なのかもしれないが小学生、中学生くらいの団体が多く、広い都が埋め尽くされていた。勤政殿と光化門の間は特に広く、回りの群衆さえ気にしなければ李氏朝鮮時代にタイムスリップしたのではないかと思わせるに十分であった。光化門の前には大きな道路が走っていてその道は渋滞している。そこはもう普通の大都会の様相だ。林立するビル群はなぜか霞んでみえる。春霞でもあるまいに・・・と考えていたら昔の東京のスモッグに似た雰囲気である。ソウルではまだ光化学スモッグはあるのだろうか。
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ホテルを出てからずっと禁煙だったので安着祝いのタバコを吸い、すぐ我々は国立中央博物館へ。入場料は一人700Wonだった。あ〜、やっぱりこれくらいはするんだな〜と一瞬思ったのだが冷静に考えると日本円七十円。安い。この勘違いはこの旅行中いつもやらかしていた。中央博物館ではちょうど「百済特別展」をやっていた。ラッキー。百済は英語で「Paekche」と表記する。これだとピァクチェと発音するのだろうが、「くだら」と読むより納得できる。
入り口から順路に沿って左側に進む。見た目よりずっと広い博物館だ。入り口で電話のような日本語ガイドマシンを3000wonで二台借りた。先史、旧石器、新石器時代を経て青銅器文化、鉄器文化の紹介、それから高句麗・百済・伽椰・新羅の各時代が続く。なかなか丁寧な展示である。模型など利用した説明もあり、分かりやすい。日本人観光客も多いと思うのだが展示品の説明はハングルと英語のみ。この辺にも韓国のこだわりがあるのかな〜と感じつつ見て回った。高句麗室では軒の丸瓦の展示が多く、面白い形をしたものがあった。沖縄のシーサーにも通じるのだろうか。また新羅室では慶州(キョンジュ)地方の古墳から出土された馬具や王冠の展示もあった。古墳内部を模した部屋もあり、お〜古墳の内部はこうなっているんだと感慨深かった。玄室は思ったよりずっと狭く、これなら遺体と埋葬物で一杯になることだろう。また玄室内部四方にはいろいろな絵や図形が描かれている。きっと日本の古墳の内部でもこれと似た絵や図形があるだろうな〜。宮内庁が許可を出さないため、まだ日本では古墳内部の状況が公開されてはいないが、きっと朝鮮と日本の当時の関係が明確にできる何かが日本の古墳に埋まっていることだろうなどと感じつつオッサン・オバハンは研修に励んだ(^^;)。
青銅器室の展示で鏡の展示があり、友人の一人が「どうやってこれで顔写してたんだろうね、デコボコしてて写らないジャン」と言った。初めは彼らしいジョークだと思っていたらなんと本気の疑問らしい。なるほど鏡の展示では鏡の面の展示ではなく、裏面の模様の展示がほとんどだからかもしれない。「その裏側が鏡なんだよ〜、昔は水以外顔など映せるものがなかったろ」と説明。みんなに大受けの質問であった。
これらのあと、更に展示は高麗時代、李氏朝鮮時代の陶磁器へと続く。白磁、青磁などとても綺麗だ。私は陶磁器にはあまり執着はないが、それでも見ていて楽しかった。
その後仏教彫刻と絵画室などもあった。「百済特別展」に辿り着く頃にはもう我々も疲れはじめていた。百済特別展では古墳から出土された王冠や土人形などの展示が面白かった。出口近くには景福宮全体のジオラマもあり、解放時代(1945年)以前のものと現代のものと対比して展示してある。とても大きなジオラマである。これで朝鮮総督府がこの宮にどのように建てられたかを知った。勤政殿と光化門のちょうど中央くらいの場所にドンと建てられていたのだ。いくら市の中心部に近く、広い敷地があったにしても韓国の歴史ある場所に建てたものだと日本人として恥ずかしくなった。東京の真ん中にあり、広いからという理由で皇居の真ん中に米軍が進駐軍の巨大ビルを建てたら日本人はどう考えたのだろう・・・とこのジオラマを見て考えた。
勤政殿
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もう一時半を過ぎようとしていた。腹も減っているし、歩き疲れていた。入館してから四時間、ほとんど歩きづめだから無理もない。取りあえず昼食を取ろう・・・ということでみんなの考えが一致。ただ出口付近にミュージアム・ショップがあり、私と友人の一人がミュージアムショップ大ファンなので、みんなに付き合ってもらう。さっき見た勾玉のような感じの良いレプリカがあれば欲しかったが、いかにもレプリカです・・という感じの光り輝いたものだったので諦めた。ミュージアムショップファンからするとピカピカしているものよりも、汚れや傷まで含んでレプリカにしてほしいのだが・・・。ここでは韓国のコインのセットとピンバッジや綿のバッグなどを購入した。地下にももう一つのミュージアムショップがあるというので、嬉々として(二人だけだが)、そこに行く。白磁・青磁など綺麗な陶磁器が売られている。「いいな〜」と思うものはやはり高い。友人たちが青磁の陶器や数珠など購入する。ここの陶器は「国立中央博物館」という印字が木製の箱に成されていて、博物館ショップ大好き人間には良いだろう(^^;)。王冠のレプリカは七万円ほどしたがとても綺麗な出来でかなりぐらついたが辛うじて思いとどまった。カードだとつい衝動買いしてしまうこともできるので、私にとってミュージアムショップは危険な場所でもある。(^^;)
二時近くにようやく博物館を出て、隣接する食堂へ。ここもかなり混んでいる。料理自体はあまり期待できないようだが空腹には勝てない。韓国の人が注文している「ジャジャン麺」とビールで昼食。セルフサービスではあるが一人3500won(日本円三百五十円)はかなり安い感じだ。ジャジャン麺は失敗したスパゲッティミートソースのような味であった。なにか辛みが欲しいな〜と思いつつテーブルの上を探すが何も置いていない。まあいいっか〜と食べ終わる。食器を下げるのもセルフになっているので持っていくと、なんと中央に山のような唐辛子とたくあんのような漬け物があった。きっとこれをかけて食べるのだろう。ううぉぉっっぅうっ失敗した〜。この食堂の隣にもお土産屋さんがあり、B級おみやげ大好きな私と友人の一人がみんなの冷たい視線を浴びつつ、買い物。B級おみやげは見つけたときに買わないと、ず〜と買えないときがある・・ということを経験則で知っているから仕方ないのだ・・・と自己弁護(^^;)。
当初の予定では今日はできれば戦争記念館まで行けたら・・ということだったのだが、もうこの時点で三時近く。戦争記念館見学は明日に延ばした。博物館横にある「韓国民族博物館」に行くことにした。中央案内所でソウル市内地図とガイドブックを貰った。
民族博物館の入り口にはハングル文字で書かれた横断幕があった。友人の一人がとても興味を示し、「あれはなんて書いてるんだろ、きっとなにか大切なことなんだよ〜」とみんなに言っていた。そんなに気になるんだったら案内所で訊いたら・・と提案。早速彼が訊いてきた。なんとその横断幕にはハングル文字で「No Food, No Drinking, No Smoking」と書いているとのこと。みんなで大笑い。面白いオチだった。この入り口には李氏朝鮮時代の衛兵の格好をした口髭を蓄えた若者がいて、記念撮影も大丈夫みたいだったので我々も記念撮影。真っ赤というか緋色の着物はとても格好良かった。
入り口すぐの勤政殿では世宗大王の即位式を真似た儀式をやっていた。なんでも今日はハングルの日という特別の日らしい。またまたラッキー。地元テレビ局などもクレーンなど配置し、気合いの入った取材をしている。勤政殿の広場の回りには観光客用の椅子も用意されていたので、歩き疲れていた我々はこれ幸いとばかり座って観賞。赤・青・黄色の原色の衣服がとても勤政殿に映えて美しかった。世宗大王役はとても若い人で御簾の台のようなものに乗って登場。回りを兵士役の若者達に持たれている。かけ声も野太い声で格好良かった。やがて大王が正面の金色の大きな椅子に着席して、儀式が終わった。
儀式見物のあと、のんびり散歩しつつ民族博物館方向へ。大きな池に浮かぶ慶会楼は水面に映えて素敵だった。民族博物館の前は韓国の昔の遊びの紹介と実技ができる場所だった。タガ回しやコマ回しなど我々にも懐かしい遊びだった。ただ韓国のコマ回しはコマをひっぱたいて回すようで、これがやると見るとでは大違いの世界。友人達もトライするがなかなか上手く回らない。韓国の子供の中にはとても上手い子がいる。どうもコマの下、とがった部分を目指して紐で叩くと良いらしい。五重塔のような建物に隣接する民族博物館に入館。
中央博物館が文化・歴史に重点を置いた展示なのに対し、この民族博物館は庶民の歴史、生活道具の展示に重点を置いているようだ。各時代のそれらの展示も楽しめた。ただガイドブックで予め知っていたことだが、日帝時代の資料は驚くほど少ない。知られたくない・知らしめたくない歴史の恥ずべき部分として捉えられているのだろうな・・と痛感した。これだけ歴史も文化もある国が三十六年間も日帝に植民地化されてたなんてとても認められないことなのだろう。そういう歴史を感じつつこの博物館を歩いた。
先ほどの中央博物館でも、この民族博物館でも学生達が展示品の説明を熱心にメモしている。それも床に座り込んでとても熱心に書き写している。可愛い女子大生がいたのでオッサンの私としてはついつい質問。やはりレポート提出義務の科目のようだ。それにしても説明などは資料用の本を買い、それを写したら良さそうなものだと提案(^^;)したら、説明と自分の目で見た感想を入れないと認められないとのこと。そうだよな〜、つい日本の大学のレポートのような気がしてしまった自分に反省。それにしてもモノスゴイ数の学生が博物館の資料をいくらレポートのためとは言え熱心に見ている姿は怠け者の大学生だった私にとって感動モノだった。
韓国の国民的歌手・チョーヨンピルのとても若いときのLPレコードジャケットをここで見たのがなぜか印象に残っている。
民族博物館を見終わり、これからどうしようとみんなで話し合った。正直言って二つの博物館でこんなに時間がかかると思っていなかったので、今朝立てていた予定が総崩れ状態だった。時間があったら行こうと決めていた「漢江遊覧船(ハンガンユラムソン)」だと夜でもやっているだろうから、これからそこに向かうことにした。この時点で五時近かった。
漢江遊覧船の乗り場は地下鉄五号線ヨイド駅から十分くらい歩いたところにあった。ヨイドは川幅一キロ以上ある漢江の中州の島にある最近発展しつつある場所だ。国会議事堂や大きなデパート、巨大ビルなどもある。ソウルのマンハッタンと呼ばれている地域らしい。
ユラムソン乗り場は大韓生命63ビルのすぐ近くだった。青空に輝くこのビルの壁面はとても綺麗だ。連凧がこの大きなビルに向かって延びて飛んでいた。河川敷には食べ物屋台がたくさん出ていた。屋台の前ではゴザのようなものを敷き、みんなビールなど呑んでのんびりしている。この辺はデートコースにもなっているようでカップルも多数いた。インカのフォルクローレを演奏しつつCD−ROMを売っていた南米人らしい人たちがいてとても雰囲気が良かったのだが、人だかりが出来始めると河川敷の管理人らしき人の「中止」命令が発令された。回りに集まっていた若者達はブーイングで対抗しようとしたが、やはり中止されてしまった。私ももっと聞きたかったので残念。
乗り場に着いたのは五時半少し過ぎ。ちょうど遊覧船が出たばかりだった。ううぉぉっっぅうっあと一時間も待たなきゃいけない。オッサン・オバハンの修学旅行の面々はかなり疲れていた。普段歩き慣れていないのか足を引きづっている者もいる。私は危惧していた「歩けなかったらどうしよう」という件がなんとなくクリアされたので安心していた。足は痛かったが。(^^;)
ヨイドは漢江の中州とは言え、まったくそんなことは感じられないほど広い場所だ。大韓生命ビルが建つほどだから地盤もしっかりしているのだろう。あのビルは63階建てだと思っていたら地上60階、地下3階の合わせて63だと知った。やはりこういう表し方にも国民性がでるのだろう。そういえば池袋のサンシャイン60は正味60階建てなのだろうか。ご存知の方は教えてください。遊覧船乗り場から見える川の対岸はスモッグのせいか霞んで見える。しかも川幅が一キロ以上ある川で、しかも広い河川敷もあるので対岸のマンション群など墨絵の世界のようだ。いままでいろいろな川を見たことあるが、こんな都会の真ん中を流れている川で、こんなに広く堂々とした川を見るのは初めてだ。昨日空港から市内に入るときもこの川の岸辺を走ったはずだが、これほどまで広い川だとはその時点では気づかなかった。
六時四十分、漢江遊覧船は出発。周遊コースと片道コースがあり、我々は片道コースを選択。6000wonほどだった。出発したときにはもうすっかり暗くなっていた。明るい内は霞んで、ボーとしていた景色だが夜の帳は風景を一変させた。景色が輝きはじめていた。両岸はライティングされた都市の景観そのもので見応えがあった。片道コースというので三十分ほどかと思っていたのだが一時間ほど遊覧して蚕室(チャムシル)船着き場へ着いた。七時四十分過ぎだった。船着き場にはバスがあると信じ込んでいた私だがその期待は思いっきり裏切られた。ううぉぉっっぅうっまたまた歩かなくてはいけない。ここはオリンピックスタジアムの近くのようで、河川敷にはサッカー場や体育館などあり、とても広いのだ。しかも河川敷を過ぎ、堤防を乗り越えて歩くことを考えるとみんな気が重い。でも歩き始めないと何もできないので歩き始めた。朝はコンビニ、昼はジャジャン麺しか食べていないので、もう完璧空腹状態。しかも足痛し。
堤防を越えると日本の公営住宅のような建物が続く。言葉少なく皆黙々と歩く。チャムシルだとしたらロッテワールドの近くだと思うので、そこを目指した。ロッテワールド近くまで行けばきっと美味しいレストランがある・・・・それだけを信じて歩いた。
歩き続けて三十分、八時十分すぎにロッテワールド着。とてもでかいデパート兼遊園地だ。みな顔に疲労の色が出ている。十二時間近く歩き続けたことになる。さすが私の仲間だ。足の痛い者も不満を言うことなく歩いたんだから。これからレストラン探しも面倒なので、九時半までやっているというロッテデパートのレストラン街に行くことにした。
エレベータで一緒だった家族連れもレストラン街で降りた。そこのお父さんが日本語が話せそうだったので「ここでサンゲタンの美味しい店はありますか」と訊いて見たところ、そのお父さんが小走りでいなくなった。一体どうしたことだと思っていると自分の予想した店まで行き、確認してきてくれた模様。おおっっ感謝。お父さんの確答を得て入ったお店は「高麗」だった。今日はなんと高麗づいていることか。
New YorkのKorea Townで初めて食べたサンゲタン(参鶏湯)、そして各地で韓国レストランがあると食べ続けた私にとって本場韓国でのサンゲタンはどうしても外せない食事だった。サンゲタンは若鶏丸一羽の中に餅米やナツメグ・高麗人参など詰めて煮込んだスープなのだが、スープとは言え、ボリューム満点。本場韓国のサンゲタンはどんなだろうと私は思い入れたっぷりにレストラン「高麗」に入っていった。
まずは「お疲れさん乾杯」ということで皆ビールで喉を潤した。歩き疲れ、汗をかいたのでビールが殊更美味い。私が前からサンゲタン、サンゲタンと言い続けていたので同調者も多かった。チゲ(鍋)を頼んだ者もいた。料理を注文すると嬉しいことにキムチ・カクトゥギ(カクテキ・大根キムチ)が無料で出てくる。今日のカクトゥギはとても美味い。ビールをガンガン、それから眞露という韓国焼酎もガンガン呑んだ。私も禁酒などということはもう頭のどこにもなかった。酒が美味く、仲間達と今日の博物館の話題などで盛り上がるなどなんたる幸せ(^o^)/。そのうちサンゲタンが運ばれてきた。
ここ「高麗」のサンゲタンはスープが透明でとても上品な出来あがり。若鶏もとてもきれいな色をしている。さっそくステンレスのレンゲで食べる。美味いo(^^o)(o^^)o。云うことなしの美味さだ。これで9000won(日本円九百円)は申し訳ないほど。日本で食べると二千円以上はして、しかもあまり美味くなかった。今まで食べた中ではハワイの韓国食堂で食べたサンゲタンも美味かったけど、ここ高麗のものは比べようがない。デパートのレストラン街ということでダメかな〜と思っていたが、そんなことはなかった。メチャウマの世界。もう満足満足。
九時二十分、そろそろこのデパートの外に出なくていけない時間だ。ホテルまでまだ四十分ほどかかるだろうからとトイレに行く者、タバコを吸う者など様々。だがここで韓国での初事件が勃発。トイレに行った者が戻らず、付近をみんなで探したが見つからないのだ。しかも下に降りるようアナウンスもあり、我々は下に降りて彼を待つことにした。一応トイレも確認したがいないようだった。その時点では下で待っているかもしれないとも思っていた。だが・・・しかし、下にもいなかった。我々が降りた後、エレベータが何度か往復し、その後ドアを開いたまま一階で止まったままになった。あっこれはもう上に降ろすべきお客さんがいなくなった証拠だ〜と思ったときから我々の大騒ぎ・大捜査が始まった。
先に一人で帰っているとは思えないからこの時点で考えられることは二つ。
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トイレで具合が悪くなり、個室で倒れていて気づかれていない。実際一番足の痛みがひどく、疲れていた者だったから。
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トイレ、あるいはその近辺で強盗などに襲われ、自由が利かない状況。これは考えるのもイヤなことだった。どこか狭い場所に放り込まれているのだとしたら発見される可能性は低い。
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我々残された五人のうち、二人はデパートの周囲を何度も往復して彼を捜した。また一人は最後まで動いていたエレベータの出口を動かず、見張り役。私ともう一人は一階にいたガードマン詰め所で折衝。最初にいたガードマンの人は英語が話せず、我々二人はハングル語がまったく分からない。でも我々が英語で必死になって説明していることが分かるのか、心配顔。そのうちそのガードマンの上司らしい人が登場してくれた。彼は英語が話せる。また最初から説明して十一階レストラン街のトイレを見てきてくれるように頼んだ。早速彼は動いてくれ、上に電話して見回ってくれた。でも発見できないとのこと。私たちが自分たちで見てきていいだろうか・・・と頼んだがそれはできないと断られてしまった。そりゃそうだろうな〜、どこのウマの骨か分からない外国人の部外者の我々なんだから。
状況の二を説明して、近くの倉庫や隠れた場所も見てほしいと頼み、それもその上司がやってくれた。だが見つからないとのこと。ううぉぉっっぅうっ大変。このときになって状況が悪くなったことを実感。その後トイレとその近辺の探査を何度かやって貰った。だが状況が変わらない。はぐれてから一時間半が過ぎようとしていた。もうこれ以上ここにいてもどうしようもないので、上司の人にもし何か分かったら我々の宿泊先慶南ホテルに電話をしてくれるように頼んでホテルに戻ることにした。
チャムシル駅で慶南ホテルに電話して彼が戻っているかどうか確かめた方が良いという意見が出て、それもそうだと公衆電話のところへ。ここでも悪戦苦闘。コインを入れても戻ってきて電話ができないのだ。壊れているのかと思って違う電話でも試したがダメ。ここでも我々の悪戦苦闘ぶりが目を引いたのか韓国の若い女性が声をかけてくれた。とっても美人さん。友人がいなくなっていることをひととき忘れて、その子と話す。片言の日本語を話す人で、ナイスバディ(^^)/。オッサン連中が舞い上がっているのをオバハンは冷静に観察してて「早く電話しなきゃ」と提案してくれた。きっと「こんなときでも男どもは・・・オヒオヒ」と思っていたことでしょう。(^^;)。その子が公衆電話のかけ方を教えてくれた。なんと切符のときと同様まずボタンで宣言する必要があったのだ。コインを入れるということは電話をかけるということだと判断してくれよな〜と思いつつ、ホテルに電話。「Is there anyone who can speak Japanese?」とフロントの女性に訊いたら「少しだったら話せます」と日本語で答えてくれた。早速状況を説明して彼が戻っているかどうか確認。やはり戻っていないとのこと。う〜ん、困った。状況は更に悪い。その美人さんに十分お礼して我々は一路地下鉄でホテルへ。記念撮影して彼女と別れたが、なんで住所を聞かなかったんだ・・・・というオッサンの意見もあった。(^^;)
十一時半近く、我々は長漢坪駅に着いた。我々がホテルに戻っても彼がいなかったらどうしよう・・・・二時まで待って帰らなかったら警察と日本大使館に電話しよう・・などとみんなの会話も暗く、一路ホテルへ向かう。ホテルに着き、フロントの女性に尋ねると嬉しいことに彼は一足先に帰っていた。ううぉぉっっぅうっやった〜、これで大丈夫、一安心・・・と思う反面、ムクムク腹がたってきた(^^;)。
そんな感情を胸にしつつ彼の部屋のチャイムを鳴らした。何度鳴らしても彼が出てこない。あれ、まだ帰っていないのか・・・と思い、また更に鳴らす。フロントに戻ろうかと思い始めた頃、ようやく中から反応があった。帰ってきて少しまどろんでいたのだろう、目の前に疲れ果てた顔の彼がいた。ひとつ文句でも言ってやろうか・・・と思っていた私だが彼の疲れ切った顔をみて、「大丈夫か、心配したんだぞ」と言うに留めた。高校時代の我々だったらきっと大喧嘩になったことだろう。歳を重ねることにも良いことがある。人に優しくなれるから。彼も、我々も疲れていた。だから彼ばかりでなく私達もはぐれ、判断を誤る可能性があったのだ・・・・と。
一息つき、私がシャワーを浴びようとしたときに「おい、電話だぞ」という同室者の声。私はこんな深夜の電話に「あっっっ日本でオフクロでも死んだかな〜」とイヤな予感がして慌てて電話に出るとロッテデパートでお世話になった上司の人だった。「お友達は戻られましたか」という声を聞き、「今まで心配してくれていたんだな〜、こちらから電話すべきだった」と痛く反省した。今回の件は大変な事件だったけど韓国の人たちは見知らぬ外国人に対してもとても親切に対応してくれる人なんだ・・と分かっただけでも良い経験だった。私の住んでいるオホーツクに面した街ではロシア人にとても冷たいことをよく知っているから。
博物館でも感じ、古墳の内部でも感じていた同根同種の関係がこの事件で更に明確化されたような気がした。訪韓前は排日、反日の意識が強いのでは・・と新聞などを読んで想像していたがそんなことはないことが体感できた。その後反省会と称して二時頃まで呑んだ。(^^;)
私の万歩計てくてくエンジェル「ころ」ちゃんの報告によるとこの日私が歩いた歩数は二万六千歩を軽く超えていた。お〜スゴイスゴイ。
長く、疲れた一日が終わった。
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