2001.1.3号 09:00配信


哲学

課題 人間機械論


 
 課題に答えるに当たって先ず、論述の組たてに関しいささか触れておく。
 まずはじめに「人間機械論」について簡単述べその後に、もし人間がある種の「機械」と規定され、あるいは全面的に機械とは言えないまでも、メカニックな自然現象における可能的な一バージョンであるとされ、世に受け入れられた際の問題点をとりあげ、それらに関し思うところを述べる。
 それには、すでに盛んに行われている、臓器移植をはじめとする医療上の問題、次に政治、経済、社会的にいかなる問題を孕んでいるかについてのべるという組立となる。

 本論
「人間機械論」とはそもそもいかなるものであろうか。かいつまんで述べれば、これは哲学史上相当長期間にわたって心身二元論と言う形で様々な立場から考察されてきたが、それを現代科学の諸成果、特に大脳生理学等の成果も踏まえながら、哲学的に人間をある種の機械と見なし、「心」と呼ばれている人間の精神活動もネットワーク化された大脳における一作用とみなし、一元的に論ずるものであるといえる。
 近代哲学の先導者、デカルトも身体は機械と見なしていたが、当時の機械とは、バネ仕掛けの時計が想定されていた。現代では機械と言えば、電子機器、つまりコンピューターや、超LSI回路を組み込んだ人工頭脳で動く、人間ようのロボットを想定することになろう。 このように機械という概念も確定されておらず、また技術のますます素早い変革、発達の動きを目の当たりにすれば、定義不可能な概念かもしれない。従って今のところ、各時代の技術体系がもたらした機械というものの総体のイメージと言うように仮定して以下の論を進める。

 医療上の問題
 現代の医療は人類が数千年間にわたってイメージしてきた人間観に大変革を迫っている。 以下その実体を参考文献を手がかりに述べつつその諸問題に対する私の思うところを語ることにする。
 人間観の変革は、今日人体に関する豊富な知識と、医療技術の高度化によって臓器移植が相当の成功確率の許、日常茶飯事に行われているという事実に由来する。心臓移植に始まったそれは、肺、腎臓、肝臓などに及び、ほか角膜、皮膚、骨、血管、心臓弁と言った組織や細胞など人体に何処といって無駄はないと思われるほど再利用は多岐にわたる。
 これらの動きを見るに、医療分野ではすでに不良パーツの交換といった形で、「人間機械論」が実践されている。臓器移植は「死」の概念さえ変えてしまった。何事においても慎重な我が国がすでに法的に「脳死」をもって人の死であると認めた。これはその分野での諸外国との技術的格差が付くのを恐れたための措置ではないかと思われる。
 また移植が行われると言うことは、臓器への需要が生じると言うことであり、そこには臓器市場が形成される。我が国では現在、本当に提供者の善意にたよって、また厳しい規制の許で細々と移植が行われているに過ぎないが、アメリカはじめ、規制のゆるい国ではすでに企業が活動を始めている。表向き「売買」とは言わないが、「加工、保存手数料」名目で相当額の金銭の授受が行われており、実質臓器売買が行われている。
 報道によれば、現在日本の幼女がアメリカに渡り移植手術を待っているがその総費用は5,6千万円にもなるとのことで全国から寄せられた善意によって渡米が実現した。
 確かに一人の命が救われることは尊いことだが、一方金で命を買うという風潮の到来を感じてしまう。こういう事例が増えるなら、やがて善意の寄付もままならぬようになるだろう。そうなれば、豊かなもののみが長生きできることになるのだろうか。
 また臓器や組織移植のほか、遺伝子治療もますます盛んに行われている。これには運び屋として各種ウィルスが使われる。 
 ここには、いつの日か改造ウィルスが暴走するという危険が潜んでいるように思われるのだが、杞憂だろうか。
 そもそも遺伝子治療にはまず遺伝子の作用の解明が不可欠であり、現在各国が人ゲノム解読を競い合っている。新薬の開発やその先には、移植用の臓器や組織を試験管のなかで培養するという技術開発が見込まれているからである。つい先日の新聞報道に、耳でも鼻でも発現させられる、人間の万能細胞作成に成功したと報じられた。
 もしかしたらそう遠くない将来、人間は首から下はすべて取り替え可能となるかもしれない。サルを使った首のすげ替えはすでに実験されている。
 これら医療上の超ハイテク化による人体改造の実体は人間の心理にも様々な影響を及ばすことになる。これは後に論じられる社会的な問題にも通ずるが、旧来の倫理はやがて機能しなくなるということを予想させる。人々の生命延長への欲求は、止まることを知らず医学の発展という大義と相まって人間を押し流し始めるのではないか。
 以上医療上の問題はひとまず置いて、次に政治経済などを含む社会的な角度から考察してみよう。
 
 政治、経済、社会問題
 かつてニーチェの「超人思想」がナチスに利用されたといわれている。それと同じことが「人間機械論」に生じないだろうか。
 つまりある国家か、民族または政治的、軍事的、経済的な力を有するグループが、「我々は優秀な機械であり、劣悪な機械を支配する権利がある」とか「性能の悪い機械は廃棄しなければならない」といった極論がまかり通る口実をあたえることにならないのだろうか。我々が日常使う車とかパソコンなど、時間と共に次々陳腐なものに変化し、ついには買い換えなければならなくなる。だいたい機械とはそうしたものである。
 人間という「機械」も結局はそのような扱いを受ける可能性を否定できないのではないか。
かつて女性は、「お家」のために子供を産むのが人生最大の仕事と見なされていた。しかし時の流れのなで、人類の精神的進化とでもいうべきか、特に先進諸国では男女平等が当然視されるようになった。それが最近では、「産む、産まぬは女性の権利である。」と言う主張が声高に語られ始めた。次は「結婚なんかしたくない、しかし子供はほしい。どうせ苦労して育てるなら優秀な機械に越したことはない。」と人工授精で、しかも、出産の苦痛は逃れたいと、代理母に産ませる等と言うところまですすまないと言う保証はあるのだろうか。
 あるいは、「結婚はあなたとするが、子供は芸能人にしたいから、精子バンクから入手するわ。」と言う宣言に、男どもがおろおろするという時代は、まったく考えられないのだろうか。
 もしこういった事態になれば、家庭とはなんだろうか。人類が営々と築いてきた、文化とか諸規範はどんな意味をもつのだろうか。 「所詮人間は機械にしか過ぎないのさ。」という論法に対し、いかなる規範をもってその行き過ぎをいさめるのだろうか。
 もし人間がその本質において、何らかの「機械」と呼びうるものであることが明らかになるなら勿論、科学的に裏ずけられ、論理的に構成された「人間機械論の時代」にふさわしい倫理もやがて構築されるだろう。しかしある倫理なり道徳なりが、独裁者がふるうような強制力なしに、一つの社会や国家の通念として定着するには相当の時間を必要とすることは、歴史が証明するところである。
 古い規範が無力になり、新しいものがまだ到来しない間に、技術のいよいよスピードを上げつつばく進する進歩、それと手を組んだ人間的エゴイズムの無制約さが社会を暴走させ、自滅へ向かうようなことはないのだろうか。これも無用な危惧であろうか。

 結論
 話はかなり深刻な様相を呈しているが、そろそろまとめに入ることにする。
 私のこれまでの考えには「人間機械論」なるものは全く無縁なものであった。いまこの課題を与えられ、あわてて種々参考文献にあたり、おぼろげながら、その輪郭が見え始めたに過ぎない。
 おそらく、たいていの人にとってもそうだろうが、ただ漠然と、「人間はやはり機械とはどこか違うのではないだろうか。」との想いがあるばかりだ。
 「ではお前は人間をどういった者だと考えているのか。」と問われても自信をもって語れるものを持ち合わせてはいない。
 そのようなところから、もし人間があらゆる証拠から機械に準ずる者として明らかにされ、規定された場合に生ずるであろう、社会的混乱に想いを致して語った次第である。
 社会における政治、経済、文化などさまざまな分野で、価値観の転倒が発生しどれくらいの期間になるかは解らないが、ニヒリズムが横行するのではないだろうか。
 その間、肥大した人間の欲望が社会を動かしていく力として君臨するのだろうか。

 自ら論じたとは言え、この結論ではいささか悲観的過ぎる。私の心配性が反映されたようだ。よって参考文献として学んだY.S.ラマチャンドラン、サンドラ.ブレイスクリー 共著「脳の中の幽霊」の結び(320p)の宇宙論学者、ポール.ディヴィスの言葉に希望を託して論述を終えることにする。

 「私たち人類は、科学を通して自然の一端を把握することができる。私たちは宇宙の暗号の一部を解読した。、、、これは何を意味するのだろうか。、、、人間とは何なのか。私たちは宇宙と密接に関係している。ホモ族の種という身体的存在には何の価値もないかもしれないが、宇宙のある惑星に心が存在するという事実は、間違いなく根元的な意味を持つ。宇宙は意識のある生物を通して自己認識をうみだした。これがささいなことであるはずがない。知性のない無目的な力の小さな副産物である筈がない。私たちはそうあるべくして、ここに存在しているのだ。」 


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