2000.1.4号 11:00配信


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北見市役所文芸部発行「青インク」より

オホーツク発 私的文化論

小川 清人


 「青インク」が再発刊するとのことで、新しい原稿が望ましいのですが、たまたま廃刊される直前まで『北海タイムス』の「論」の欄に十九回連載したもののうちから文化にかかわるもの五編を掲載させていただきます。

 当世文化センター事情

 四年に一度の統一地方選挙のたびに、首長候補の口から出るのは『器公約』である。スポーツセンター、文化センター、コミュニティセンターから温泉施設まで、まさに昨年の春四月は器公約の百花繚(りょう)乱であった。
 文化センターをとってみても、私の住むオホーツク圏だけでも幾つかの市町で計画があるほか、この一、二年のうちに完成したものも二カ所ほど見られる。戦後の一時『文化』ブームとなり、文化なにがしが氾濫し『文化納豆』までが登場した記憶もある。現代版『文化』ブームというには、文化センターは現代文化事情を考えると期待と一抹の不安を抱えているような気がするのだ。
 十五年ほど前までは札幌近郊の文化センターは、舞台公演のほとんどが札幌中心のため企画に苦労したと聞いたことがある。現在は札幌近郊の街だけでなくオール北海道にその傾向が現われ、札幌のロングランで全道から客寄せができる交通事情になっている。
 オホーツク圏でも駅弁大学ならぬ駅弁文化センターといえるほど各市町村に文化センターが完成、予定されており、町内会で利用頻度を高めるなど苦肉の策で消化しているところもある。地域文化の殿堂と叫ばれて誕生したものの、よほどしっかりした事業を持たないと宝の持ち腐れになる心配が生じてきている。
 札幌中心の文化活動から全道各地に根を下ろした文化活動をするための文化センターづくりができないものだろうか。

 ここで幾つかの考察をしてみたい。
 第一は、文化センター建設を広域で考えてみることはできないものか。“おらが村”のセンターから隣り町と一緒の文化センターづくりである。利用客の増加を図るとともに職員も折半し、一部事務組合の管理体制で運営できるのではないか。
 第二は、文化センターネットワークづくりである。
 近畿圏では放送局と共催して複数センターで共同企画事業を持ったと聞いている。大きな企画事業を幾つかのセンターで開催することにより、広域動員だけでなく人間交流、共同学習など効果面では限りなく広がると思う。
 たまたま昨年、『劇団民芸』の公演実行委員の一人として参加した。劇団員の一人が地元出身ということもあり、一市二町でそれぞれ実行委員会方式で公演をもち大成功を収めた。劇団側にも舞台セットの移動経費、団員のコンディションづくり、PRの範囲限定など効果を上げたと喜ばれた。
 姉妹センターを全道的に提携したり、同規模ホールの共催事業、あるいは同時期建設の姉妹センターなどの合同企画など、縁結びの方法は多様に考えられる。
 第三は、センター館長を市町村職員にとどめず多方面に求めてみてはいかがだろうか。管理者責任は副館長にまかせ、長期ビジョンづくり、館長人脈による公演誘致、何よりも大切なものは建設以前からお願いし、館のコンセプトづくりから議論したら、どれほどすばらしいセンターになるだろうか。
 第四は、地方センターでも古典芸能、クラシックバレエなどの機会をぜひ提供してほしい。
 所作台を持っているホールでも数年に一度しか使用されていないのでは寂しいことだ。特に日本文化のすばらしさを子供たちに伝える事業を息長く続けてほしい。文化庁主催の芸術祭を待つのでは、いつまでも文化不毛地帯は解消できないと思う。
 第五は、最後にしても最も重要なことで、利用する市民優先のセンターにしたい。戦後、雨風をしのぐだけでも感謝して使われた公民館や学校が地域文化の殿堂だった。豪華で冷暖房付きもありがたいが、利用料金、申し込みの簡素化など利用者優先であってほしいのだ。
 かつてオホーツク斜面に文化の落葉運動を推し進め、痛ましいほど叫び続けた男がいた。中央との文化的落差を埋めようとして火山灰の上に“文化的黒土”の層を増やすために提唱し続けて三十年。落ち葉はまだ黒土の一塊になったばかりである。
(一九九六年 一月)

 オホーツク文学館

 『オホーツク文学館』をご存知だろうか。名称からすると網走市か紋別市にあるように思われるかも知れないが、石北線の遠軽と北見の中程にあるJR生田原駅に併設されている文学館である。生田原町の中心に位置し一階に図書館があり、三つの機能を持ったユニークな複合施設となっている。
 なぜ生田原町に文学館かというと、町の説明によれば宗谷、網走、根室各支庁、いわゆるオホーツク圏のほぼ中央に位置し、加藤多一や菊地慶一がこの地に縁あったこと、他市町村にこの種の施設がなかったことをあげている。文学館のほかに文学碑公園、歌句碑ロードと、いずれも平成になってからの新事業として開花した。平成二年に一老人の『町内に句碑の道を設置してほしい』との声が招いた波紋は、一大プロジェクトとして着実に進行中だ。
 文学館には、戸川幸夫、八木義徳、武田泰淳、金子きみ、三木澄子、高橋揆一郎、中山正男、小檜山博、小池喜孝、渡辺淳一らの作品紹介や自筆原稿、初版本など四百点を超える資料が展示されている。最北の地オホーツクへの郷愁か、この地の人とのかかわりか、思った以上の作品の多さに時を忘れて見入ってしまう。
 さらに町発行の『オホーツク文学の旅』(木原直彦著)もすばらしい。自分の街中心の自治体の中にあって、文学、作家紹介にとどまらず各地の郷土施設までも取り込んだ解説書の企画は、オホーツクの空のようにさわやかである。
 文学にとどまらず中野北溟、小川東州の書、豊島輝彦、木嶋良治の絵画なども楽しませてくれている。
 階下の図書館にはオホーツクコーナーがあり、地元作家の著書や叢書、同人誌などが閲覧できるが、残念ながらその数は今一歩の感である。
 図書館活動としてユニークなこのコーナーは、文学館の歴史に対し文学の現状を知る大切な役割を果たしてほしいものだ。
 そのためには自費出版された方、この地にかかわる作品を所蔵されている方々に、この館の存在を知ってご協力いただきたい。空調完備の施設であれば孫子の代までも保存し閲覧できる願ってもない環境である。
 数年前になるがアメリカの美術館を訪ねた時に、展示されている作品の中に相当数の個人所蔵品があったのを記憶している。所有者の名前と地名が作品名の下に表示されていた。日本ではその例が少ないのは税金対策ともいわれているが、そうだとすると寂しい限りである。
 絵画事情と違い文学作品、それも相当価値のあるものは別として贈呈してもらうか、あるいは厳しい経営状況で運営している団体の場合などは購入も含めて館と相談することも提案したい。
 十勝・中札内村の坂本直行記念館、鹿追町の神田日勝記念館など、道東各地にはすばらしい輝きを放っている施設があるが、オホーツク文学館はその可能性を持った施設である。
 流氷、カニ、原生花園などとともに、文学館コースとして旅行社のプランにも是非加えてほしい新しいオホーツクメニューであるのは確かだ。
(一九九六年 三月)

 光を見つけた市民参加劇

 『そんじょそこらのバナナとはものが違う。今朝台湾から着いたばかりの新鮮なバナナだ。それがなんと一山十銭だ。いらっしゃい、いらっしゃい』。渥美清の『寅さん』ではない。北見市百年の歴史を舞台化した市民参加劇での屋台のバナナ売りが私の役だった。
 『風は自由ですか、大地は緑ですか』。北見開基百年のシンボルテーマをタイトルにした市民参加劇は、太古の昔から終戦直前までを二時間三十分の集団構成劇にしたものである。
 私の出演した第六幕『ハッカ景気』の場面だけでも、二百三十八人のキャスト。舞台には料亭で豪遊するハッカ成金。観客席の横は夜店通りで屋台が並び、バナナ売りのほか、ガマの油売り、ヨーヨー、易者、ラムネ屋などが客寄せをするという、ハッカ景気を再現した舞台づくりだ。観客が出演者にまぎれて屋台の客になるほど舞台と客席が一体となって繰り広げられた。
 第八幕までの総出演者が千人を超え、二千人以上が観客となった。原作、脚本とも地元で叢書や同人雑誌を手掛ける作家で、演出を担当したのも地元の『劇団河童』の面々である。第一景から八景までそれぞれ団員が演出し、総合演出を劇団代表が受け持つ方法で春三月から四カ月間の強行スケジュールだった。
 だが一人ひとりが役割を果たすことによって本番当日はリハーサルでの心配すら吹き飛んでしまった。各景ごとに客席から拍手が起こり、フィナーレでは大道具関係者らスタッフも含めて参加者全員が紹介され、感動の喜びと涙が百年広場にあふれて成功を祝った。
 演出を担当した『劇団河童』はオホーツクで活躍する数少ないアマチュア劇団である。昭和三十一年にアラルコン作『三角帽子』ほ旗上げ公演してから今年で四十年を迎える。この間に『劇団ポプラ』(網走)『海鳴り』(紋別)『もくよう』(留辺蘂)との交流や北海道演劇祭のほか、近郊町から招へいを受けて公演を持つなど、オホーツクの中心劇団として活躍を続けている。
 今、地方で劇団を運営するのは大変むずかしい。『河童』は代表のリーダーシップと団員のチームワーク、作品を提供する作家、公演近くになると自然と集まってくるスタッフなどに恵まれている。他の文化サークルの支援から協賛会社まで地域とともに歩んで市民権をもった演劇集団に育ったことで長い間維持してきたと思う。
 戦後は各町ごとにアマチュア劇団が生まれ、文化の香りを放っていた。高校演劇祭も活発で地方の高校で熱演を競ったものである。
 たまたま在京劇団の実行委員をした時、メンバー一人が高校を回って演劇部のない高校、あっても活動の休止しているところが多く、びっくりした話をしていた。これは演劇ばかりではなく、オホーツクの唯一の公募美術展の審査鑑別に携わった際にも近年の傾向として応募者数の減少が課題となっていた。地方の創作集団の悩みは大同小異であり、あらためて人間のあかしである文化醸成の必要性を感じるのだ。
 しかしながら市民参加劇で一つの光明を見つけた。北見市長はじめ多くの賛助出演のほかに小中高校生の参加が多かったことである。動物たちのバレエをした小中学生、戦時中の消火訓練で出演した高校生、平和の唄を歌った小学生が出演の喜びを味わった。作品を完成させた時の歓喜、両親や知人にほめられた経験は、きっと将来の文化の芽になるだろう。
 子供たちにそのすばらしさを経験させたことが、市民参加劇の一つの成果だったように思う。十年後には成人した子供たちがリーダーの一人として舞台に立っている。そんな気がしてならない。
(一九九六年 九月)

 北のアルプ美術館

 九月二十六日から十月三日まで、網走管内斜里町のギャラリーアドで『田中良展』が開催された。『北のアルプ美術館』開館四周年の記念特別企画展であった。
 同美術館は一九九二年六月に開館した。山の文芸館『アルプ』は、自然についての幅広い執筆活動を続ける串田孫一を代表に一九五八年三月に創刊され、尾崎喜八、畦地梅太郎等が中心になり、約六百人の執筆者により一九八三年二月まで三百号発行された。全バックナンバーが展示されていることから、美術館の名もそこに由来している。
 茨城県で生まれ、戦後東藻琴村に移住し農業をしながら画家への夢を燃やし続けた田中良が、『オホーツクの風のいろあい 北辺を描く』のテーマで個展を企画したことも、四周年を飾るにふさわしいものであった。
 『田中良展』と同時期に『尾崎喜八展』が美術館で開催されていた。著者や写真とともに西常雄作の尾崎喜八像が展示され、串田孫一像にあわせて館の魂がそろったようにも思え嬉しかった。
 斜里町朝日町一一の二に美術館は所在する。入口の天然木に『北のアルプ美術館』とあり、白樺、イチョウ、ナナカマド、ライラックに囲まれるように田園風の洋館が佇んでいる。
 三井農林斜里事業所が一九六一年に社員寮として建築した。敷地面積四千五百四十平方bに二百平方bの二階建。玄関前でステンのミラーと少女の彫刻『北の裸像』(藤原秀法)が迎えてくれる。館に入ると左側に落葉を敷きつめた晩秋の『北のアルプ美術館』(石井公彦)が揚げられ、正面に『串田孫一像』(西常雄)が鎮座している。
 階段の踊り場に『アルプを望む少年像』(鈴木吾郎)と『岬初冬』(小松明)が見られる。 『岬初冬』をはじめ、オホーツクをモチーフとした作品に『能取岬燈台』(高橋康夫)、『待春』(真鍋光男)、田中良の『峰浜』、『赤い流氷』(小西充)、『オーロラ』(戸川幸夫)と続く。地元作家の中村興一の陶芸、富沢裕子の油彩があるのも嬉しい。オホーツクに育まれた作品を愛情深く展示していることが入館者に伝わってくる。このほかにも更科源蔵、一原有徳、大町桂月の作品も見ることができる。
 山崎猛館長は『アルプと私』の中で『二十二才の心にこれほど新鮮で気高く映ったものはなかった。そして私の人生を変えてしまったように思われる』と述べ、写真集『氷海』の作家として『写真の世界に没頭してしまったのもアルプの精神からであった』と述懐している。
 何度となく訪問しながら、入館料もなく、受付の女性に鑑賞中にコーヒーまで届けてもらい恐縮してしまったこともあった。最近聞かれる言葉に『企業メセナ』があるが、そんな簡単な言葉で表わし難い配慮が、館内の展示、館外の環境から秋の陽ざしのようにやわらかくしみてくるのである。
 串田孫一が『心蘇る緑』の言葉の中で『そして北海道の斜里の、この美術館のあるところから、病める地球が見事に癒(いや)されて行く爽かな緑が、先ず人々の心蘇り、ひろがって行くことを願っている』と贈っているが、斜里町は知床百平方b運動の発祥の地であり、自然保護の街として、また、日本最後の秘境といわれる知床国立公園をもつ町として、『北のアルプ美術館』が招かれる運命にあったような気がしてならない。
 器の立派さや一点豪華主義が注目される美術館事情の中で、目と心で鑑賞する私設の美術館が真珠のように輝いて見えるのである。
(一九九六年 十月)

 松樹路人とオホーツク

 『松樹路人展』が今月十八日まで北海道立近代美術館で開催されていた。四月十八日の閉会式で『故郷、北海道の地で開催を呼び掛けてくれたことに感激した』と心の高まりをあいさつの中で述べていた。
 松樹は、一九二七年羽幌町に生まれ、父美代治が教諭であったために、その後オホーツクの佐呂間町、留辺蘂町、女満別町を転々として現在の網走南ヶ丘高校に入学している。
 一九四一年に上京するまでの幼年、青春期を過ごしたこともあり、描く作品に北海道の風土をとりあげたものが多く見られる。
 開催中に展示されていた『北見風土記−連山大雪』は北見の信用金庫から三年前に依頼されたものである。担当者によると、オホーツクの風物を盛り込んだ作品を求めていたところ、松樹の名前があがったとのこと。二〇〇号の大作は多くの作品の中でも数えるほどしかない。
 一九九四年七月、十月の長期取材、その後二年間の制作日数を要した。たまたま信州のアトリエを訪ねたことがあり、テレビ・ラジオもない静寂の中で真摯(し)に制作する姿に感動を受けたものである。
 青年男女を囲むように、とん田兵屋、ピアソン館、ハッカ記念館の歴史建造物とピアソン牧師夫婦、ホタテ貝、毛ガニ、麦、ハッカ、玉ネギ、蕗、カラマツ林と遠くに望む大雪山連峰。全体を見ると未来に目をやる男女、女性のもつスズランと、アイヌ民話にも登場するシマフクロウの正面を見据えた視線が画面に緊張感を漂わせている。
 取材したオホーツクは松樹の郷愁の地であったであろう。この大作は、代表作の一つである『オホーツクの大地に・女満別から』(女満別町蔵)の姉妹作ともいえるもので、開催中も同室に展示され北の大気が清涼感を放っていた。
 それにしても松樹の作品の中にある『私の中のコロポックル』、前述の『女満別から』今回の大作に登場する『シマフクロウ』などは父美代治の影響があったと思われる。
 美代治は一八九六年恵庭市の生まれで、東京で雑誌記者をしながら小説や童話を書いた人であったが、北海道へ来てからは『生活建設の教育』を実践し、児童や父兄から信頼され、数多くの逸話をもつ教育者であった。
 松樹の心の中に父の童話づくりが引き継がれ、ペンが筆に託されたと推察することができる。北方シリーズの少年少女の中にコロポックルの民話が見えてくるのもそのためではなかろうか。
 オホーツクとの縁はさらに続く。来春完成予定の北見市の芸術文化ホールの緞帳(どんちょう)のデザインを担当することになった。ホール完成にあわせて市民の楽しみがふえたのである。
 一九九一年北網圏文化センター(北見市)で開催された展覧会以来、地域との出会いがふえ、さらにこのごろ松樹の若い時の作品を所有しているとの市民情報も耳にするようになった。
 オホーツクの地に、多くの作品を収蔵できることは、美術館に収蔵されるのとは別の意義があるように思う。
 『連山大雪』に美術評論家武田厚は『松樹さんは今日の日本を代表する貝象画家である。北海道の北に育ちながら都会的感性を強く打ち出して来た画家でもある。しかし澄み切った画面に漂流するある種のロマンチズムは、まぎれもなく北育ちの画家の証であることを画家自身は忘れてはいない。画家の裏側にその滾(たぎ)る思いが秘されている』との評を寄せている。
 このように北の育ちの画家に加えて作品にオホーツク大地の香りと風を感じることが、歓迎されているゆえんでもある。できることならば、オホーツクの各所に点在する作品を一堂に会した展覧会を企画できないものだろうか。
(一九九七年 五月)



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