2000.1.5号 13:30配信


Home

北見市役所文芸部発行「青インク」より

快心と 憂心と

高橋 幸三


快い挨拶

 つい先日、友人のお伴で東藻村を尋ねる機会を得ました。同村には、数年前にパークゴルフと風呂を求めて訪ねたことがありますが、今回、公共施設の整備が一段と進んでいることに驚きました。
 友人が要件を済ませている間、私は近くの施設をブラリ外観することにしました。
 煉瓦調の役場庁舎は村のシンボル施設として将に立派でしたが、その隣に、生涯学習センター、海洋研修センターと横並びに建てられ、そのまた隣にふれあいセンターと称する福祉施設が変わらぬ姿で並んでいました。さらに、センター棟続きに高齢者介護センターと特別養護老人ホームが新たに併設されていました。一見して、同村の福祉にかける意欲を肌身に感じさせるものでした。どの施設にも前庭があり、きれいに芝生と樹木が植栽され、管理も行き届いていました。
 突如、サイレント共に救急車が特養ホームの玄関に横付けされました。やがて担架で運ばれた老人を載せると何処にかと消えていきました。多分、病院へ運ばれたのでしょう。
 私は、道路を隔てた「ふれあい広場」と称する小公園の白樺林に涼を求め、暫時、静寂な街の息吹を享受していました。時折、広場の中央に設けられた大きな噴水が、間欠泉のようなシブキの音で時の経過を知らせてくれます。
「お早うございます」 金属性の澄みきった美しい声に我に返りました。そこには、幼児と相乗りし歩道を通り過ぎようとしている自転車の母子像がありました。多少うわずりながら答礼した私は、晴々とした爽快感を甦えさせられたのです。
 私は、田端地区の住民が、互いに挨拶を交わせる間柄になって欲しいと、機会ある毎に訴えています。一見易しそうなこの運動、実はなかなか実現できないで困っているのです。 
 その地域に住んでいる住民が、等しく健康で明るく、互いに助け合い、住んでいて良かったといえる地域になって欲しいとの願いは、田端町のみならず、どの地域でも掲げている目標でもありましょう。
 地域の人に出会ったら「お早うございます」「お元気ですか」という挨拶の交換は、本来、自然に出てくる習慣であって、決して強要されて、いやいやすべきものではありません。「たかが挨拶」。しかし、地域づくりの目標に取り挙げなければならないほど、疎遠になった地域の人間関係がそこにあるという悲しい現実なのです。 
 挨拶が、何の抵抗もなく実行される背景には、互いに顔見知りであることです。私たちは今、地域内の人と人との出会い、交流を深める事業であれば何でも試みよう。参加者は少なくても継続することが大切。続けることで人の輪が徐々に広がり、人との行き交いに挨拶が交わされ、明るい地域社会の形成になることを信じつつ。
 東藻琴の若いお母さんの弾むような明るい挨拶。清々しさと心の暖かみは今もまだ消えていません。

隠れた善行

 朝夕、ジョギングやウオーキングで体調を整える人が多くなり大変喜ばしいことです。
 私は、このところ毎朝ラジオ体操を日課の一つにしています。体操会場に行くまでの間、ウオーキングの人と良く出会います。顔も名前も全く知らない人との出会いでありながら、すれ違うときにはどちらともなく「お早うございます」とか「お疲れさん」といった挨拶の交換が行われ爽快さを感じます。
 犬の散歩を兼ねてウオーキングする人も多くなってきました。飼い主が犬の糞を始末する袋などを持参している姿は、微笑ましい光景ですが、中にはどうも、体裁だけの人も少なくないようです。現に、歩道に糞が散乱していることは稀ではありませんし、常呂川堤防にいたっては糞が堆積し公害をも呈しています。
どうも日本人には、「人が見ていなければ……」という公徳心に欠ける点があるように思われます。「俺一人ぐらい」という風潮。特に、最近はこれが顕著に見られ、深い懸念と憂慮を感じるのは私だけでしょうか。
 体操会に向かう途中に、ビニール袋を持ってウォーキングしている中年の男性に出会いました。彼は、道路に落ちているゴミを拾ってはその袋に入れ持ち帰るのです。私は名前を聞こうと声をかけますと「ただ歩くだけではもったいないですから」とさりげない言葉を残して行き過ぎてしまいました。隠れた善行の爽快感で心が洗われる思いをしました。最近この方の姿は見えません。どこかに転勤でもしたのでしょうか。小さな親切運動の善行章に推薦して挙げたい思いは未だ断ち切っていません。
 以後、私も路上のゴミは拾うことにしています。

躾はどこで

路上のゴミは、空き缶とアイスクリームを食べた後の包装紙、鼻をかんだものなど様々です。中には、飲み物が半分以上も残っているものもあります。捨てる時の心理はどうなんでしょう。「自分に不要になったから捨てる」んでしょうが、その時「環境を汚す」「人に迷惑をかける」といった公衆道徳の心は一体どこにいっているんでしょう。
 夏祭りの最後を飾る花火大会が今年も河川敷で行われました。翌朝、南大通の歩道にはプラスチックのジョッキーが捨てられていました。そんな情景を見ながら体操会場に着いてびっくり、そこには家庭用花火の残骸が散乱していました。家族で楽しんだのか、子ども同士で遊んだのかは別として、後始末をきちんと出来ない集団であったことだけは間違いありません。楽しんだ後はみんなで、後片づけをする。こんな基礎的な生活習慣は、当然幼児から家庭で身につけられていなければならない躾の問題です。
 公徳心の欠如を嘆くとき、社会の一員としての生活習慣が家庭の中で、しっかりと躾けられていたのかどうか甚だ疑問に思います。最近の若い親は「教師の指導法を批判しつつ、吾が子の躾を求める」と聞きます。本末転倒の認識すらしていないのです。
 少子化の家庭で育った子どもは、とかく自己中心的になり勝ちです。他人を思いやる気持ちは、家庭の躾の中で育まれるものと思います。しかし、その親もまた少兄弟で甘やかしの時代に育ち、親からの躾も十分に受けないままに親になったことを思えば、躾たくとも躾が分からないのが本音だともいえます。
 今、改めて家庭での教育力や地域の教育力が論じられていますが、これも地域の人々が互いに知り合っていることが根底となりましょう。地域の子どもはみんなの子ども、気軽に注意できる関係になっていなければなりません。また更に、長年蓄えた知識や技能を保持している高齢者が地域に沢山います。この地域の宝を埃に埋もれさせず、如何に活用できるかが、これからの地域活動に課せられた課題の一つと捉えています。


ご意見・ご感想を「青インクの掲示板」でお聞かせください。

indexbacknext掲示板


Home
(C) 1999 Webnews
ご意見・ご感想・お問い合わせはwebmaster@webnews.gr.jpまで