2000.1.9号 08:30配信


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北見市役所文芸部発行「青インク」より

私的歌舞伎講座

細野 義昭


 一九九九年六月、巷の噂では来月にも地球は滅亡するというのに、あわただしい一ヶ月間だった。
 三月四日の浦河町への出張に始まり、体育センター改修工事の関連事務、姪の結婚式、振興会総会、運営委員会の開催、ホーム利用者のキックベース大会参加等に加え、映画二本「鉄道員」、「ハムナプトラ」、芝居が二本「常紋トンネル」、「ザ・ウィングオブ・ゴッド」、それに桂米朝落語会に歓送迎会と、盛りだくさんな毎日。おまけにクーラーをつける熱い日の次の朝にはストーブを点けずにはいられない不可思議な天候に、道路から三十三米も奥まった我が家の通路には雑草が生き生きと伸び放題。築後二〇年を迎えようとしている我が家の風呂場に蟻が出るわ、トイレに羽虫が飛び回るわで、退屈する暇はなかった。
 米朝の講演会で、カンナの台尻を叩いて刃を調整している場面を弟子が演じて、後で出た米朝が解説していたが、今はこんな事でも説明しないと意味が分からない時代になっているのだろうか。そういえば私が市役所に入った頃、計算機は手回しだったし、複写はカーボン紙で、書類を綴るのはコヨリだった。
 わずか三〇年程前だが、今では目にした職員は少なくなっただろう。それだもの三〇〇年も前の話なんか・・・・・と言いたいところだが、どっこい、それが現在、生で動いて観られるなんて、びっくりじゃございませんか。それが歌舞伎なんですよ。今も盛んに上演されている『義経千本桜』や『菅原伝授手習鑑』、『仮名手本忠臣蔵』なんて芝居はあんた、一七〇〇年代半ばに作られたものだし、シェークスピアが死んで間もなく近松門左衛門が生まれ、近松が死んで暫く経ってからチェーホフが生まれたなんざ歴史の因縁を感じさせるじゃございませんか。
 なんせあなた。近松とモリエール、バッハがほぼ同時代に生きてたなんて愉快じゃありませんか。

 まあ、歴史的な事は後回しにして、私が歌舞伎と出会ったのは、昭和三八年の春、桜の花がほろほろと散る中を明大前の校舎に向かって歩いている途中、一人の狸顔の女性に出会ったのがきっかけだ。(因みに私は狸顔の女性は嫌いではない)
「歌舞伎研究会に入りませんか」にこやかな誘いではなかった。何人もの学生に声を掛け断り続けられたらしく、疲れ切った顔だったが、私には憂いを持った顔立ちに見えた。困った顔の女性を見捨てて立ち去ることのできない性格の私は、すぐに入会書に署名した。そのときの彼女の嬉しそうな顔は、なんとも言えないすてきな笑顔だった。

 生まれて初めて生の舞台で観た歌舞伎は、つまらなかった。何の感慨も沸かなかった。歌舞伎研究会に籍は置いたものの、心の中では別なサークルを探していた。
 そのような中で、ある日、明治大学文学部日本文学科担任の水野稔先生が、「せっかく地方から東京に出てきたからには、東京でしか味わえないものを学んでいくべきだ」という旨の話があり、今東京でしか観られないものは歌舞伎だ、ということだった。今でこそ、大阪でも毎月のように歌舞伎の公演があるが、当時は歌舞伎座をはじめ、渋谷の東横劇場、新橋演舞場等で毎月歌舞伎が上演されていたのは東京だけだった。更に、くだんの狸顔の女性に相談したところ、「そうね、せっかくの学生生活なんだから、自分の好きな事をやった方がいいね」とサークル変更を勧めてくれた。なんという思い遣りのある言葉でしょうか。こんな温かい、思い遣りのある人のいるサークルを離れてしまっては男がすたる。と、結局明大歌舞伎研に籍を置き腰を落ち着ける事になってしまった。

 次の団観(歌舞研で団体鑑賞すること)で目からうろこ。十一代目団十郎と歌右衛門の「お祭佐七」を観たとき、背筋が寒くなるほどの興奮を覚えた。イイ男とイイ女の恋のやりとり、止むを得ない事情での縁切り、出刃を持った立ち廻り、団十郎のキビキビした動きの格好良さ、台詞の生きの良さ、そのリズム感、良かったですねェ。これが歌舞伎なんだ。
 それからは、授業に出ない月はあっても歌舞伎を観ない月はなかった。高校時代にブラスバンドで太鼓をやっていたリズム感が、歌舞伎の中でも生かされた。いわゆる大向こうだ。
 なにがなにして、○○屋、なんとかだアー。の○○屋と掛け声を掛けるのが大向こうというのだが、これをスパーッと決めるのはリズム感が大切なのだ。自分の経験上から言うと一番最初に観る歌舞伎は、面白い出し物を選んで観なければ、一回観ただけでもう観なくても良いと思ってしまう。また逆に、もっと観たいとも思う。歌舞伎は色々な面を持っているからだ。芝居の内容で観るもの、役者の個性で観るもの。近頃のように、何回も同じ芝居が上演されると、役者を選んでみるのも面白いと思う。同じ「助六」でも、団十郎、勘三郎、松緑では見た目も違うし、雰囲気も変わってしまうのだ。十五代目仁左右衛門の助六は十一代目団十郎以降仁に合うイイ男だった。また、玉三郎の揚巻が、またなんとも言えないいい女だった。
 つまり、歌舞伎は初めて観た演目、役者により好悪が決まってしまうという事です。

 では、何を観ればよいのか?誰の芝居を観れば良いのか?タイトルに『私的・・・』と唱ったのは私の好みを押し付ける由縁である。

 まずのお勧めは『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』と聞いてもピンと来ない人が多いだろうが、「知らざア言って聞かせやしょう」とか「問われて名乗るもおこがましいが」と言うセリフなら耳にしたことがあるでしょう。そうです。弁天小僧とか日本駄右衛門が出てくる『白浪五人男』の事です。女性を装って呉服屋に行き、端布を万引きしたふりをして見破られ、しかも男とばれて逆にゆすりに係るのが「知らざア言って聞かせやしょう」のセリフになるのだが、『浜松屋』五人の盗賊が捕手に追われて各々名乗りを上げるのが『稲瀬川勢揃の場』で、この二場だけで上演されることが多いのだが、通し(五幕の芝居で全部演じるのを『通し』という)で観ると『だんまり』や『立ち廻り』など、歌舞伎の様式美を堪能できる。特に大詰『山門の場』は、平舞台から絢爛豪華な屋台が徐々に姿を現し、やがて二階建ての屋形が出てくる。(これを『セリ出し』という)二階から屋根の上にあがっての立ち廻りが続き、屋根が傾いて(『屋体くづし』という)その上での様々な立ち廻りの形があり、見得がある。何回見てもワクワクする場面だ。

 今の役者で観るなら、弁天小僧は菊五郎か勘九郎、日本駄右衛門は吉右衛門、赤星十三郎は玉三郎、忠信利平は彦三郎、南郷力丸は八十助で観たいなあ。 私がはまっていた頃は、松緑、梅幸、三津五郎(先代)羽左衛門等役者が揃っていた。私のご贔屓は勘三郎だった。当時は他に十一代目団十郎、歌右衛門、幸四郎(先代)勘弥、団蔵(先代)若手では新之助(現団十郎)、菊之助(現菊五郎)、辰之助(先代)が三之助と呼ばれ人気が出てきたり、猿之助の三代目襲名があり、竹之丞(現富十郎)納升(現宗十郎)等が東横劇場で花形歌舞伎を演ったり、雁治郎(先代)が映画から歌舞伎に戻ってきたり、寿海(市川雷蔵の父とも言われている)も健在だった。大向こうの諸先輩は、六代目菊五郎、吉右衛門、十五代目羽左衛門の舞台を観てきた方が多く、何かといえば「六代目は」とくる。逆立ちしたって観られないわっちらは口惜しくても仕方がない。畜生、あの世に行ったら菊吉どころか五代目の菊五郎も九代目の団十郎も観てやるわい。

閑話休題

 次のお勧めは『歌舞伎十八番』物と言っても、十八番全部上演される事はまずない。代々の市川団十郎が演じてきた物の代表的なものを、七代目団十郎が家の芸として定めたもので、「矢の根」、「鳴神」、「助六」、「不破」、「毛抜」、「外郎売」、「不動」、「景清」、「関羽」、「解脱」、「象引」、「蛇柳」、「七ツ面」、「押戻」、「嬲」、「鎌髭」、「勧進帳」、「暫」の十八だが、常に上演されるのは「鳴神」、「勧進帳」、「毛抜」等が多く、襲名等で「暫」、「助六」「外郎売」あとは「矢の根」ぐらいで、その他は極く稀れか絵画でしか観たことのない演目もある。歌舞伎十八番は物語も単純で、主人公は若々しく荒々しく、衣装のきらびやかさと、歌舞伎の様式美が随所に観られるし、観客も肩に力を入れずただ場面場面を楽しんでいればよいのだから、初めての人にもすんなり入っていけるものだ。ただ、「勧進帳」だけは九代目団十郎が練り上げ高尚なもの(とはいえ、能と違ってやっぱり歌舞伎だが)に仕上げてしまったので、少々十八番物の中では異質なものだが、日本人に馴染みの深い弁慶と義経の物語だから、話の内容は観ていれば分かると思う。

 その外では「髪結新三」、「夏祭浪花鏡」、「籠釣瓶花街酔醒」(かごつるべさとのよいざめ)等が初心者でも入り込みやすい芝居だと思う。あとは「義経千本桜」も義太夫物としては分かりやすい。(義太夫物とは文楽から歌舞伎に移入したもの)
 役者で言えば、中村富十郎を筆頭に、勘九郎、十五代仁左衛門、板東玉三郎、中村吉右衛門、板東八十助、中村橋之助がお勧めだ。団十郎、菊五郎、幸四郎、猿之助等もいるが、私は好きではない。

一、歌舞伎は日本語で演じられる

 当たり前の話だが、歌舞伎は日本語で演じられている。ただし、分かりやすい日本語が使われている芝居と分かりづらい日本語で演じられている芝居がある。先に掲げた芝居は分かりやすい日本語で演じられているものばかりを列記したものだ。
 歌舞伎には、大きく分けて三つの流れがある。いわゆる歌舞伎のために書かれたものと、人形浄瑠璃(文楽=義太夫物)の為に書かれ、歌舞伎に移入したものと、新作歌舞伎の三つだ。有名な「仮名手本忠臣蔵」も、「菅原伝授手習鑑」も、近松門左衛門の作品も当初は人形浄瑠璃の為に書かれた作品である。(たまに歌舞伎から人形浄瑠璃に逆移入されたものもあるが、稀である)
 この義太夫の日本語が分かりづらいのだ。太棹の三味線(普通のより棹が太く、音も低い)の伴奏で、低い声でうなっている声が聞き取りづらく、また言葉が難しく、意味が分からないことが多い。作者の教養をひけらかす漢文からの引用が多いからだと思うが、その枕言葉をはずすと、情景描写や人の出入、役者の心情もしくは状況を説明しているのだ。その辺をわきまえ、なれてくると聴きとれるようになる。今どきの訳のわからん歌謡曲を聞いているつもりになれば良い。つまり、一言一言を聞き取って意味を理解しようとするより、分からない所は単にBGMとして聞き流し、聴きとれる所だけ理解できれば、さほど歌舞伎を観るための支障にならないのだ。

 考えてもごらん。当時の歌舞伎のお客は、高校も大学も卒業していないどころか、小学校も出ていない庶民の娯楽だったんですぞ。ひょっとしたら文字すら読めない者が、菊五郎の髪結新三はイキでイナセで良かったなぁ、と湯上がりに酒でも飲みながら、声色(物真似)をやって楽しんでいる図を想像すると、なにも堅苦しく考えることはないと思うんだが。そこが貴族や武士の社会で育った『能』とは違って、もっと卑俗なものであり、身近なものだったものだった。

与三郎

「えぇ、御新造さんへ、おかみさんへ、お富 さんへ、いやさ、お富、久しぶりだなぁ」

お富

「そういうお前は」

与三郎

「与三郎だ」

お富

「ええっ」

与三郎

「お主は俺を見忘れたか。しがねえ恋が情けの仇、命の綱の切れたのを、どう取り留めてか木更津から、めぐる月日も三年越し(みとせごし)、江戸の親にゃあ勘当受け、よんどころなく鎌倉の、谷七郷(やつしちごう)は喰いつめても、面(つら)に受けたる看板の、疵がもっけの幸いに、切られ与三(よそう)と異名をとり、押し借り強請も習おうより、慣れた時代(じでえ)の源氏店(げんやだな)、そのしらばけか黒塀の、格子づくりの囲いもの、死んだと思ったお富たあ、お釈迦様でも気がつくめえ。よくもお主や達者でいたなぁ。おい安」

安蔵

「へい」

与三郎

「これじゃあ一分(いちぶ)じゃ帰られねえや」


 いい所の若旦那与三郎は、千葉県木更津に養生に行ったとき、お富というイイ女と出会い愛し合うが、実はお富は土地の顔役の妾で、これがばれて切り刻まれ、簀巻きにされて海か川に流される。一方お富の方も世をはかなんで投身自殺を図るが、別々な場所で生き延び、与三郎は小悪党になり、頬に蝙蝠の刺青のあるところから『こうもり安』と言われる安蔵と、強請たかりをして生きている。ある日、黒塀の格子造(というと妾宅を表している)に目を付け、強請に入ってみると、なんとそこに居たのはあのお富だった。そこでこういう台詞のやりとりになるんだけど、たいして難しい日本語ではないでしょう。

 もう一つ、白浪五人男(原題:青砥稿花紅彩画)から、勢揃いの場

駄右衛門

「問われて名乗るもおこがましいが、生まれは遠州浜松在、十四の歳から親に離れ、身の生業(なりわえ)も白浪の、沖を越えたる夜働き、盗みはすれど非道をせず、人に情を掛川から、金谷をかけて宿々(しゅくじゅく)で、義賊と噂高札の、回る配布のたらい越し、危ねえその身の境界(きょうげえ)も、もはや四十に人間の、定めはわずか五十年、六十余州に隠れのねえ、賊徒の張本、日本駄右衛門」

弁天小僧

「さてその次は江ノ島の、岩本院の稚児あがり、普段着馴れし振袖から、髷も島田に由比ケ浜、打ち込む浪にしっぽりと、女に化けて美人局(つつもたせ)油断のならねえ小娘も、小袋坂に身の破れ、悪い浮名も竜の口、土の牢へも二度三度、だんだん越ゆる鳥居数、八幡様の氏子にて、鎌倉無宿と肩書きも、島に育ってその名せえ、弁天小僧菊之助」 忠信利平「続いてあとに控えしは、月の武蔵の江戸育ち、ガキの頃から手癖が悪く、抜参りからぐれ出して、旅をかせぎに西国を、回って首尾も吉野山、まぶな仕事も大峰に、足を止めたる奈良の京、碁打ちと言って寺々や、豪家へ入り込み盗んだる、金が御獄の罪科は、蹴抜の塔の二重三重、重なる悪事に高飛びなし、あとを隠せし判官の、御名前騙りの忠信利平」

赤星
 

「またその次につらなるは、以前は武家の中小姓、故主がために切り取りも、鈍き刃の腰越や、砥上ケ原に身の錆を、磨き直しても抜きかねる、盗み心の深緑り、柳の都谷七郷、花水橋の切取りから、今牛若と名も高く、忍ぶ姿も人の目に、月影ケ谷神輿ケ嶽、きょうぞ命の明け方に、消ゆる間近き星月夜、その名も赤星十三郎」

南郷
 

「さてどんじりに控えしは、潮風荒き小ゆるぎの、磯馴れ(そなれ)の松の曲がりなり、人となったる浜育ち、仁義の道も白川の、夜船に乗込む船盗人、浪にきらめく稲妻の、白刃で脅す人殺し、背負って立たれぬ罪科は、その身に重き虎ケ石、悪事千里というからは、どうでえ終えは木の空と、覚悟はかねて鴫立沢、しかし哀れは身に知らぬ、念仏嫌れえな南郷力丸」

駄右

「五つ連れ立つ雁金は、五人男をかたどりて」

弁天

「案に相違の顔触れは、誰れ白浪の五人連れ」

忠信

「その名もとどろく雷の、音に響きし我々は」

十三

「千人あまりのその中で、極印うった頭分」

南郷

「太夫え布袋か盗人の、腹は大きな胆玉」

駄右

「ならば手柄に」

五人

「からめてみろえ」

捕手

「そうれ」


 と立廻りになる。『白浪』とは盗賊の事で、あとは地名に引っかけた言葉遊びが混じっているだけで、さ程難しい台詞ではないと思うがいかがなものでしょうか。この台詞だけで、五人男の性格が理解できると考えるのは、私だけでしょうか。違いますよね、皆さんもきっと理解できたと思いますよ。この台詞を、捕手に囲まれた中で、傘を持った五人が登場し、歌うように美しく、リズムに乗った台詞回しで語り、名前の所で見得を切ることになっている。私たちもサークルのコンパや合宿で気持ちよく演じたものです。
 どうです、難しくないでしょう。歌舞伎は、日本語で語られているのです。

 二、歌舞伎の型について

 歌舞伎は『型』が決まっていて、誰れが演っても同じだと思っている方が多いと思います。確かにそういう部分もありますが、微妙に異なっている。これは役者によって役の性根に対する解釈の違いによって異なるからだ。先代の三津五郎は「型は、心の表れである」と語っています。

 私の卒業した明治大学歌舞伎研究会は『公演校』であった。当時、大学歌舞伎連盟に参加している学校は十三校あり、青山、学習院、東大、践見、明大が毎年公演を行い、昭和四十年、何年振りかで公演を行った一橋、東京女子大の七校が『公演校』で、早稲田、立教、日本女子大、中央、実践女子大は『研究校』、お茶の水女子大は名ばかりで休部状態にあり、慶応は連盟から抜けて公演を続けている。この慶応の歌舞伎研については、各大学でお世話になっているM大道具屋さんに代金未払いのため、大学関係の公演参加を断られ、紹介していただいた大道具屋さんは舞踊専門店で、新たな舞台製作に多額の費用がかかるといわれ、つてを頼りに決めた道具が本番当日、舞台に立たず、後ろで先輩達が支えて何とか上演できたが、大入り満員の観客から芝居はともかく、道具がねぇ、との苦言が呈された。昭和四十年の事である。(それ以来、私は慶応にたいして好感を持っていない。なにが慶応ボーイだ。ボーイなら北大だ。ボーイズ・ビ・アンビシャスなんちゃって)
 『公演校』、『研究校』それぞれに言い分はある。子どもの時から踊り、義太夫の稽古をしてきて、歌舞伎の世界でどっぷり生きてきた役者と、何も知らないど素人が、たかが三年四年歌舞伎を観てきて、自分も演じたいという知ったかぶりでは、基本から全く異なっている。金持ちの旦那衆のお遊びで演るならまだしも、貧乏学生の演る事じゃない、と言われればそれだけかも知れない。だけどねぇ・・・。 明治大学歌舞伎研究会は平成九年、創立五〇周年を迎えた。手前味噌になるが、昭和二十二年、戦後間もない頃の創設だ。占領下で、歌舞伎の上演もままならない頃に、田村八十助氏(五十年の記念祝賀会参加後間もなく物故された。合掌)松本礼吉氏等で結成され、プロも目を見張るような芝居を演じていた。当時の人々は長唄や舞踊の素養のある人もいて、五十周年でお目にかかった田村八十助氏は、実に役者役者していた。岩井半四郎氏も当時の部員だった。師としては、先代幸四郎の名も上がっている程だ。こういう歴史のある歌舞伎研だ。

 私がサークルに入ったとき、六月の和泉祭(明大教養課程で一、二年の間通い、三年以降本校に通う。その和泉分校での学園祭)と十一月の駿台祭の年二回公演を行っていた。私の在学中の公演は年代順に「読み上げ勧進帳」「鎌倉三代記」「白浪五人男、舞踊幻保名、助六」「義経千本桜鮨屋の段」「舞踊浦島」「熊谷陣屋」「鈴ケ森」「俊寛」だった。四月の半ばに入部して、六月一日の「勧進帳」の公演。人手不足の歌舞伎研なので、入部したての私にも役が回ってきた。富樫の家来の番卒だ。一言二言の台詞を言うために、一時間半程も正座していなければならない。来る日も来る日も正座との戦いだった。お陰様で、今でも三十分くらいなら正座も平気になった。「白浪五人男」では捕手の役、「鮨屋」では村の役人だったのが、四年生になって「鈴ケ森」では白塗りのイイ男白井権八、「俊寛」では一転して赤面の仇役瀬尾太郎兼康と良い役をもぎ取った。
 一九八九年に発行された一五八頁もの明大歌舞伎研四十周年記念誌によると、「(前略)昭和四十年代に入り、価値観の多様化とともに歌舞伎研究会のあり方が問われるようになってきた」「この年も公演は研究の成果であるという大義名分が言われている」と記されている。確かに、昭和三十九年度から、年度初めに古典歌舞伎の本質の解明として、ひとつの作品を選び、作品の背景、文学性の追求、演出について、衣裳、道具等を研究調査し、その結果をゼミ誌に発表するとともに、公演に向けてきた。合宿では、各々の研究成果の中間発表や、台詞の練習も行う。
 昭和四十年度は「一谷嬲軍記」とし、三段目の切「陣屋の場=通称熊谷陣屋」を立体的に研究することになった。四月の二十二日から立ち上げ、六月にはスタッフ、キャストも決まった。この年の部活について、私は大学ノート一冊まるまる詳細に記載してあるが、その中から演出(いわゆる型)に関する部分を抜き出してみよう。
 現行の歌舞伎脚本と文楽との対比をするため、津太夫、山城掾の浄瑠璃を聞き比べ、役割分析を行う。但し、歌舞伎の約束事もあるため、弥五郎師匠と相談して決める。七月義太夫の和考氏と打合せ、今までの研究成果と、氏の意見を聞きながら義太夫(以下『床』という)部分を決めテープに収める。

 ストーリーは、平家物語の中の一ノ谷の合戦を舞台にしたもので、義経が熊谷次郎直実に『一枝を切らば一指をきるべし』との制札を与え、桜の花になぞらえて、暗に平家の公達の命を助けよという謎かけをする(一段目)。須磨の浦で、熊谷は平敦盛を討ち、居合わせた敦盛の許嫁も、横恋慕した平山に斬られ死亡する。熊谷は二人の亡骸を厚く弔う(二段目)。熊谷の女房相模は、息子小次郎の安否を気遣って熊谷の陣屋を訪れる。敦盛の母藤の方は熊谷仇と狙い、陣屋に入る。義経が敦盛の首実検に来るが、実は「一枝を切きらば、一指を切るべし」との制札の意味を理解した熊谷は、藤の方にも恩義があり、敦盛を討ったと思わせて、実は自分の子小次郎を身代わりにしたのだった。驚き、嘆き悲しむ相模に対して「戦場の習いだ」と叱りつける熊谷だが、戦の酷さ、人生の無常を悟り、武士の身の味気なさを痛感し、出家してしまう(三段目)。あとは別筋立てで全五段の作品なのだが、当時も今も上演されるのは『熊谷陣屋』だけで、極くたまに須磨の浦組打の所ぐらいである。
 浄瑠璃の原作、江戸時代に歌舞伎化された頃の台本、明治期の合理化された台本等数種類を比較検討し、結局、原本に近いものを作ろうという意気込みで始まった。
 熊谷陣屋には『芝習型』と『団十郎型』がある。
熊谷が登場して、二重(部屋の部分が高くなっていて、中央に三段位の階段がある)に上りかけ、妻の相模が来ているのを知り、最初の段に足をかけたとたん、後ろ向きににらみつけるのが芝習型、袴の膝をポンと叩いて後ろ向き(客席に背を向ける)になってから段へあがるのが団十郎型である。実は、熊谷の妻相模は、藤の方に仕えていた頃、熊谷と不倫して子どもができてしまった。藤の方(敦盛の母)は、二人を許し、結婚させた経過があり、熊谷夫妻は相思相愛の中なのだ。その妻が遠路はるばる一人息子の初陣の様子を知りたくて訪ねてきたのだが、熊谷は敦盛の身代わりに二人の間にできた一粒種を首打ったばかりなのだ。懐かしさと、いとおしさと、哀れさを一瞬のうちに表現したのが芝習型と言えるが、団十郎型だと、心の動揺を膝を打つという動作で気持ちを切り替えると言う行き方だ。武士たる者はそんな事に気を動かしてはいけないという解釈かも知れない。

 次は制札を引き抜いての見得だが、切首を見た相模と藤の方が「やあ、その首は」と近づこうとするを制札を引き抜いて押し止めるのだが、二重縁側から抜くのと、二重を下りて抜く演り方がある。また、制札の見得も、札の側を上向きにするのが団十郎型、札を下にするのが芝習型である。これは制札で首が見えないように上向きにして隠すのと、また、主君義経から頂いた制札を逆さまにするのは失礼に当たるという思いと、驚き、首に近付こうとする二人の女性を制するのには、巾の広い札の方が良しとするかの解釈の違いだろう。
 そして、最大の違いはラストシーンだ。僧侶姿に身を変えた熊谷は芝習型では二重の上で「十六年はひと昔」といい、二重から降りて「夢であったなぁ」と原本通り行い、登場人物全員が舞台上で静止したまま幕が引かれる。
 一方、団十郎型は床が「おさらばで声も涙にかきくもり」との語りの中で、熊谷一人が花道に足早に行き、幕が引かれた後「十六年はひと昔」を言い、「夢だ。ゆめだァ」揚幕(花道の出入口)の方を向く。ドンチャン、ドンチャンと遠寄せ(戦場の合戦の様子を擬音化した鳴り物)で屹っとなって武士の名残を見せ、気持ちを切り替えて、チョコチョコした足取りで、編笠を深くかぶって俗世を断ち切るように花道を進み、揚幕の中に入って幕となる。
 団十郎型は、原作を壊しても熊谷の今までの人生を捨て去る男の孤独さを強調した演出とも言えるが、逆に熊谷次郎直実を演じている役者を際立たせ儲け役になっている。
 この芝居の主な登場人物は、熊谷次郎直実、妻の相模、源義経、梶原平次景高(源氏方の侍だが、義経が裏切らないかどうかを監視する鎌倉側のスパイ)石屋の弥陀六(実は平家方の侍で弥平兵衛宗清で、幼少の頃の義経を助けている)藤の方で、各々に過去に屈折した関係にある者が多い。
 私達の熊谷陣屋は、当時から省略されていた相模、藤の方、梶原平次、弥陀六が、各々の事情、思いで陣屋を訪れるところから演った。この方が観る側に親切だし、人間関係が良く理解できるからだ。そして、ラストも団十郎型でなく、芝習型で幕を引いた。各々の人物像を際立たせたかったのと、ドラマとしての完成度を実現させたかったからだ。アンケートの結果も、おおむね好感を持って受け入れられていた。

 この芝居の芝習型、団十郎型に見られるように、役割の性根から考え出されたのが『型』なのだが、こういう例もある。
 五代目松本幸四郎という役者は鼻の高さが自慢でそれを引き立たせるため横向きの見得を多く行ったという。それは『型』というより、自分の特性を生かした演り方で、その人だけの型だろう。
 導入部で、歌舞伎に三つの流れがあると書いた。
人形浄瑠璃から移入されたものを文楽とか義太夫物と言ってきたが、歌舞伎流では『院本物』(まるほんもの)と言う。演ずるのは人形だから、ドラマ性が強い。歌舞伎の為に書かれた脚本は、例えば団十郎の為に、菊五郎の為にと、役者に合わせて書かれた物が多い。だから、ご都合主義、つじつまの合わない所も多い。それを役者の魅力でカバーしてしまうところもある。歌舞伎は色々な面を持っている。歌舞伎はよく『ぬえ』のようだと言われる。『ぬえ』とは伝説上の怪獣で、頭は猿、手足は虎、身体は狸、尾は蛇という、得体の知れないものに例えられている。かなり広範囲な多面性があるものと理解し、ドラマはドラマとして、そうでないものはそうでないものとして観る側が受け止めていれば、歌舞伎は決して分からないものではない、と断言できる。これは『鉄道員』(ポッポヤ)を観て、広末涼子がとっくの昔に死んでいるのに、幽霊として現れるのは許せるが、なぜ、テーブルの上に現実に南瓜の煮物があるんだ!と怒るようなものだ。もっと言えば、なんで定年の年に、あの路線が定年と同時に廃線に張り、都合良く死んでしまうんだ。こんなの在り得ない!在ったらあまりにも美し過ぎるじゃないか。そうです。美し過ぎるのです。だから泣けるのです。

 泣けない人間にとっては「何だ、この映画、何を言いたい、何を書こうとしているんだ」と考え、あるがままに、在るが通り受け入れる人は、不器用にしか生きられない高倉健に自分の姿を映し出し、それでも子どもが姿を変えて、その成長過程を見せてくれ、なおかつ、こんな父親の為に決して贅沢ではないが、身近な素材で温かい料理を作ってくれる娘の姿に涙するのか。歌舞伎の見方にも言えることだ。

 三、顔について

 歌舞伎界では、「一、声、二、振り、三に顔」という言葉がある。『声』は台詞又は台詞回しで、いかに気持ちよく台詞を聞かせてくれるか。『歌舞伎は日本語だ』の中で、少々長く引用させてもらったが、歌舞伎の台詞は耳に入りやすい五、七調であったり、台詞を唱い上げたりする。これは、ミュージカルのようなものと思っている。昭和三十九年東京オリンピックの年に、歌舞伎十八番物や、スペクタクルな歌舞伎の代表作ばかりを集めて上演していた。その時のポスターには「KABUKI OPERA」だった。北海道の片田舎から上京して、歌舞伎を観る変わり者にとって、この歌舞伎オペラと、十一代団十郎、二代目尾上松緑、八代目市川幸四郎の三人が日替わりで弁慶と富樫を交代で演じた勧進帳、しかも義経は歌右衛門、雀右衛門、梅幸だった。また、国立劇場が開場して、菅原伝授手習鑑を二ヶ月に渡って通し上演したある日、我が歌舞伎研の団体鑑賞日が、たまたま昭和天皇のご覧になっている席の五列後ろで、その時の芝居の緊張感、密度の濃さといったら、同じ芝居を何回か観ているはずなのに、こんな芝居は初めて観た、と叫びたくなるような興奮を覚えたり、芝居は本当に観る側と演る側で醸し出す劇場の雰囲気の中で、微妙に変わるもんだ痛感させられた。古典芸能と言われ、型が決まっているとはいえ、芝居小屋の中の雰囲気は、役者と観客が一体になって創り出すものだと実感できた時、『あぁ、歌舞伎って良いなあ』と実感として感ずる事ができる。

 さて、『顔』の事だが、一般的に白塗は二枚目、イイ男、正義であり、赤顔は悪である。勿論例外もある。血管を強調した赤の隈取(くまどり)は正義で、力強さを表し、青で描いた人物は悪である、という決まりはある。『顔』が三番目に来ているのは、役割の表現は声と振りにあり、例え顔が仁でなくても、声と振りがそろっていれば『仁』に合う合わないはカバーできるとの役者の思い上がりだと私は今でも思っている。『仁』は『柄』であると。例えば夕鶴の「つう」が、七、八〇Kgもある人が演じたらどう思うだろう?横綱「曙」が助六を演じたらどうだろう。でも演るんですよ。松緑が助六を演ったり、梅幸が・・・止めましょう。『三に顔』というのは、単に顔が良いとか悪いとかでなく、「仁に合う役かどうか」ということです。松緑も痩せていた時の仁木は素晴らしかった。役者も欧米の管理職と同様、自分の体重管理をするか、でなければ他の役に回るかして欲しい。梅幸が勧進帳の義経を演じるときは最高と思いながらも、義経はもう少し痩せてて欲しい、と思ったら、もう駄目である。だがしかし、義経を演じる時の梅幸はすっきりと痩せて見えるから不思議だ。これが『芸の力』というものなのか。それともこちら側が馴らされたのか。

  四、歌舞伎について

 江戸幕府が誕生した頃、京の四条河原で出雲の阿国が念仏踊りを唱って踊っていたのがその始まりだとされている。
 当初はかなりエロチックなもので、大衆からは喜ばれていたが、無粋なお上により、女性が舞台に上がる事が禁じられた。しかし、大衆は負けなかった。綺麗な男衆をずらーっと並べて踊らせたのだ。が、またもや禁止されてしまった。当時は『歌』と『舞』だった。これに出る者も、見物に集まる者も道楽者で、世間では傾き者(かぶきもの)と呼ばれていたらしい。何もかも禁止された日本の大衆だが、海の向こうではシェイクスピアさんや、モリエールさん等の芝居が大受けし、デカルトは哲学し、レンブラントは一生懸命絵を描いていた。
 だが、我が日本もお上の命令に只屈していた訳じゃない。一六七〇年代になると、初代の市川団十郎が荒事を始め、関西では坂田藤十郎が和事を始め、次いで竹本義太夫や、近松門左衛門が人形浄瑠璃を発展させここに『伎』が出てくるのだ。

 『歌』は長唄や、三味線、太鼓、笛での下座音楽や義太夫だけでなく、役者の台詞回しも入る。
 『舞』は文字通り舞踊だ。『道成寺』や『吉野山』『鏡獅子』等の舞踊だけでなく、芝居の中での動きを美しく見せるためにも、舞踊の要素が必要である。猿之助は踊りの中でも、何も意味のない振りと意味のある振りがある、と言っている。例えば、月を見る、風が吹いてくる。獅子頭に霊(貞子ではない)が宿り、腕を引かれていく等が意味のある振りで、その間のつなぎの部分は意味がない振りである。歌舞伎の舞踊は結構ドラマがあって、見馴れると楽しいものだ。長唄の言葉の意味なんか分からなくても気にしないことだ。私は猿之助について、考え方についても、芝居のあり方についても大賛成で拍手を送っているが、台詞の調子が肌に合わない。これは猿之助一座のほとんどの人についてもそうなので、観ようと思わないが、『猿之助十種』になっている「墨塚」とか「小鍛冶」なんて、素晴らしい踊りで、何回も観たい気持ちになる。
『伎』は技術である。「型」のところでかなり説明したつもりなので、ここでは触れないが、この『歌』と『舞』と『伎』の渾然一体となったものが『歌舞伎』だと言えば、何か想像されるものはありませんか?そうなんですよ。ミュージカルそのものでしょう。どうです、大分歌舞伎が身近なものに感じられてきたでしょう。

 えぇ、でも高いんでしょうって?劇団四季の「キャッツ」とか「オペラ座の怪人」が二時間から二時間半で一万円、今年の七月の歌舞伎座の料金が一等席で一四、七〇〇円、二等席で一〇、五〇〇円、三等のB席になると、二、五二〇円(いずれも税込み)で観られるのですよ。三階のB席なんて、はるか後ろの方で役者の顔がはっきりと見えない。その方がいい場合もあります。なんせ、男が女を演るんですから、顔がはっきり見えず、動きだけを見ていると、とても可愛らしく、美しく、その辺の小ギャル、孫ギャルよりも女性らしく見えるんです。アップに耐えられるのは玉三郎(きれいですよ)とか雁治郎、時蔵、勘九郎・・・あれ、結構いますよね。まあ、安い席でしたら双眼鏡を持って行けば不自由しませんよ。今は性能が良くて安くて小さな双眼鏡が手に入りますから。更に、この金額で五時間は歌舞伎座の中に居られるのですよ。このあわただしい世の中で、のんびりゆったり夢の世界にどっぷりと浸っていられるなんて考えたら、あなた、安いものじゃありませんか。どうです、だまされたと思って歌舞伎を観に出かけませんか。また、もっと知りたい方は近々青少年ホームの『異年齢交流事業』として、年齢、性別関係なしに「ワイン講座」と「私的歌舞伎講座」を開催する予定でおりますので、乞御期待。



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