「それはちょっとBコード(バイオエシックスコード=生命倫理規定)に触れるんじゃないですか?」少し気色ばんで山浦は中道に反論した。
S医科大学医学部、移植外科教授の中道の研究室で、先ほどから脳外科の山浦教授の二人が議論していた。梅雨のまだ明けやらぬ、六月も終わりに近いある雨の日の午後であった。
「そうかね?しかしドナー(提供者)は提供に同意しているし、レシ(受贈者)は移植以外に助かる見込みはない。Bコードの要件は満たしているじゃないか」
テーブルの上には「レシピエント蒲原昌一 三十二歳」と、「ドナー蔵田謙也 二十八歳」と書かれたファイルが少し無造作に置かれていた。
中道は己自身に言い聞かせるように、ゆっくりと少し前に言った言葉を繰り返した。
「しかし、全身移植は例がない。このケースは慎重に判断すべきです」
「全身じゃないよ、頸部から下の部分だ」
「頸部から下って、これはもう脳移植にほかならないです。一体どっちがレシなんですか?体をもらう方、それとも脳をもらう方ですか?」
「山浦くん、それはジョークかね。とにかくこれは大学理事会の決めたことだ。今さら議論をしてもはじまらん。我々としてはベストを尽くすしかないんだ」
「しかし脳移植を公表しないというのは、Bコードに抵触するすることを認めているようなもんでしょう」
「Bコード自体がこのような状況を想定していないんだ。コードの改訂を待っていてはレシもドナーも助からないだろう?」
確かに状況は切迫していた。移植を待機しているレシピエントは、業務中の事故による内蔵破裂からの多臓器不全で重篤状態であり、意識の混濁は時間の問題だった。転落事故で頭部を損傷し、脳死と判断されたドナーの状態も一刻の猶予もならない。山浦は状況を受け入ざるを得ないと感じていた。
「それにしてもマスコミとネットワークにはどう説明するんです?」
中道の表情が少し緩んだ。
「心臓、肺、肝臓の複数臓器移植ということにする。大丈夫だ、新聞だって社会面の片隅に載るかどうかの出来事だよ。今や医療関係のニュースと言えば闇クローンの方が関心が高いんだから・・。ネットワークはちょっと厄介だが、何とかする」中道はソファに座り直した。
「山浦先生、理事会でも出たのだが、この件は公になったらなったでかまわない。医学の進歩は常に法や常識の先を行かざるを得ないんだ」
確かに臓器移植は200X年の今日、目新しいニュースではなく、ごく普通の医療行為の一部となりつつあった。移植医療も勿論、ニュースソースであったが、人々の関心は違った方面に向けられていた。
人は誰でも、生体にとってリスクの少ない、しかも容易に受贈され得る臓器提供を望むものだ。
とりわけ自分の分身でもあるクローンの作製は、生体拒否反応のおそれもほとんどない。しかも臓器の提供に際しては、生命に対する良心の呵責はともかく、相手方の同意も不要だ。
しかし、クローン人間の作製は一九九八年以来、法によって堅く禁じられている。最大の理由はクローンの人権であり、人口増加問題も理由の一つであった。一方、法による厳しい取り締まりと、クローン作製にかかる莫大な費用と時間をものともせず、己れのクローンを希望する者は後を絶たなかった。都会や郊外で病院や保養施設として、巧みに隠蔽された闇ブローカーのクローンハッチェリー(培養施設)の摘発は、今やマスコミを賑わす格好のネタとなっている。
マスコミはともかくとして、臓器移植ネットワークは一人の患者への多臓器移植で納得するだろうか?しかし、それは移植外科の中道の領分だ。
もしも近い将来、脳移植とクローンが認知されたらこの世界は一体どうなるんだろう?山浦は怖気をふるった。そうなるのもたぶん時間の問題だろう。そうなればどんな病気だって、怪我だって怖くない。とにかく脳さえ、脳さえ無事ならば・・・。
「ところで、レシピエントは一体何者なんです?」山浦は訊ねた。
「彼はなんでもバイオテクノロジーのスペシャリストで、食糧増産計画に関わっていたらしい。内容は国家秘密とかでよく解らないが」
「バイテク屋さんか」それにしても運の強い男だ、山浦は感心した。レシピエントの蒲原はバイテクプラントでコンプレッサーの事故によって首から下を圧搾され、十数時間前、瀕死の状態でこの付属病院に担ぎ込まれてきた。
S医科大は神経移植の数々の実績を持ち、折しも、段階的な神経細胞結合手術の準備を進めていたところであった。その中の最終レベルに、脊髄神経移植のステップが想定されていた。しかし、それが実現することは当分の間あり得ないと誰もが思っていた。
そこへ全く偶然に、植物園で点検作業をしていた蔵田が温室の天窓から転落し、頭部に致命的な損傷を負って運ばれてきたのだ。蔵田のドナーカードに問題はなく、なにより彼には身寄りがなかった。脳死判定も終了している。移植のお膳立ては九〇%以上整っていた。唯一、蒲原の家族の同意が必要であったが、それも容易なハードルだった。最大の難関と言えば、臓器移植ネットワークだろう。今回のレシピエントの選定はS医科大の強引な意見によっている。ネットワークは表向き引っ込んでも、コーディネーターは厳しくチェックにかかるに違いない。
しかし、このリスクを引き合いにしても、S医科大にとって願ってもないチャンスだ。もしこの手術が成功すれば、大学やスタッフは勿論のこと、脳外科学会における山浦の立場は飛躍的に向上する。ただし、脳移植が認知されさえすればだが・・。そしてこの栄誉は、今までの事例から見ても、脳移植が認知されてからでは決して与えられることはあるまい。結局、山浦はコードを理由に抗うことを諦めた。
「オペは十七時から開始する。山浦君宜しく頼むよ」
中道の言葉に山浦はゆっくりと頷いて、席を立った。雨は少し小止みになって、薄日が射してきたように感じた。ふと気が付くと、ガラス窓に一匹のカタツムリがへばりついている。窓に付くなんて珍しいなと思いながら、山浦はオペの準備に頭を巡らせた。
オペが始まった。まず最初にレシピエントの脳を確保するところから取りかかる。まずは頸部の動脈と静脈を慎重に人工心肺機に繋ぎ変え、脊髄神経の切断にかかった。同様にドナー側は既に脳死している頭部を切断し、頸部から下部が確保された。そしていよいよ脊髄神経が結合に取りかかる。
世紀の大手術だというのに、患者の周りにはほとんどスタッフがいない。かわりにコンピュータと手術者で操作される数百本のマニュピレーターが医師の手となり、レシピエントとドナーの首の周囲で蠢いていた。マニュピレーターの先端は太さ四ミクロンの神経細胞も掴むことができ、人間の手の動きを数百分の一の動作に変えていく。神経を繋ぎ合わせるという、一つのマニュピレーターの操作をコンピュータが数百本の先端に伝達する。その先端にはそれぞれセンサーに誘導され、レシピエントとドナーの神経細胞がしっかりと捕捉されている。こうして、細かく複雑で反復的な技術を要するオペも、ごく少数のスタッフで可能になったのだ。いまやオペレーターとしての山浦に何の躊躇もなかった。今までに何例も切断された手や足の神経細胞をこうやって繋いできた。そして今、彼はたった一人で、莫大な数の脊髄神経をつなぎ合わせていくデバイスの一部に同化していた。
移植手術は無事終了した。新しい体を得たレシピエントの脳は一体どんな反応を示すだろう。今までに予想もしなかった様な拒絶反応があるかもしれない。様々な思いを巡らせながら、スタッフルームに戻った山浦を待っていたのは、ネットワークのコーディネイター竹山だった。
「山浦先生、お疲れさまです。それじゃこれから検体させて頂きます」竹山はにこりともしない。
「よろしくお願いします」疲れた顔で山浦はそう応えたが、竹山が真相を知るのは時間の問題だと確信していた。中道がネットワークと、事前に何らかの取引をしたのか山浦には知る由もなかったし、積極的に知りたくもなかった。
検体の時は臓器移植に関する申し合わせ事項により、病院側の医師が立会することとなっている。検体は臓器移植が適切に実施されたかどうかを確認し、執刀医の独断、あるいは私欲のために、ネットワークによってコーディネートされていないレシピエントへ不当移植されるのを監視するのが目的である。
竹山はドナーの遺体をチェックした。心臓、肺、肝臓は摘出されているが、その他の部位も損傷が激しい。移植前の所見ではドナーは頭部陥没による脳死状態となっていた。頭部のダメージは所見とほぼ一致するが、胴体部分の損傷が余りにも異なっている。頸部にしっかりと巻かれた包帯の説明を求めても、立会の医師からは明瞭な説明がない。竹山は頸部の包帯が縫合の痕だと直感した。となれば、答えは一つしかない。レシピエントは胴体を移植されたのだ。否、ドナーが脳移植か?S医科大の実績から見ても、決して不可能な手術ではない。だが、全身移植の実施には世論の了解やコードの改定など、様々なハードルが山積している。とはいえ、もしもこのS医科大の全身移植手術を公表すれば、ほとんどの世論はS医科大の味方に走るだろう。多くの人々は、それが単にコードの不備に過ぎないと感じている。そして、通常の臓器移植では存命の見込みがほとんどない患者でも、脳さえ健常であれば延命が可能になる。例えば全身を末期の癌に冒された患者にとって、それは大きな意味を持つものだ。S医科大はそんな状況を承知で、この移植手術を敢行したのだろう。
竹山は溜息をついた。この事実を確認し公表すれば、S医科大の移植手術が世界に先駆ける快挙として、全身移植=脳移植は公認されその推進に拍車がかかるだろう。それこそS医科大の望むところだ。コーディネーターとしての自分はどうすべきなのだろう。脳移植の肯定か否定か、自分は一体そのどちらを望んでいるのだろう。
だが、その前に竹山には腑に落ちないことがあった。どうしてこんなにもタイミングよくドナーが現れたのだろう。しかし、ドナーの死因に不審な所は何もなかった。警察の調書でも蔵田が植物園の天窓から誤って落下したのは間違いない。目撃者も数名いて、他殺の可能性はないと言ってよかった。
竹山は蔵田の生体検査記録をもう一度チェックする。キーボードを操作し、画面に次々と表示される血圧、心電図、血液生化学検査等々のデータを慎重に眼を通す。やはりデータが示す値は脳死状態だったドナーとして、特に問題のある様な数値は見あたらないように見えた。その時、画面をたどっていた竹山の指がぴたりと止まった。 (以下次号)
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