当地では、とっくに 海明けの季節は 過ぎ去りました。いま、オホーツク海の流氷はサハリン北部沿岸に一部残るのみです。今回は、流氷の音のお話をお送りします。
6月4日、環境庁は「日本の音風景百選」を発表した。「京の竹林」、「広島の平和の鐘」などと並んで、「オホーツク海の流氷の音」が選ばれていた。この冬の終わり、流氷の音を録音したばかり、私はその偶然に驚いた。
時はさかのぼって3月26日、場所は海明け近い知床半島のウトロ。沖では流氷の細い帯が海と空を隔てていた。浜は吹き寄せられた大小の氷塊で塞がれていた。僕らは浜を下り、氷の飛び石を渡って先端の氷塊に陣取った。
ときどきカモメの甲高い鳴き声が静けさを破った。耳を澄ますと、海明けのささや きが微かに浮き上がってくる。静かに水中マイクロホンをつり下げ、イヤホンを耳に当てる。
シーッ、動くな!と仲間の一人が小声で命じた。音量調整が続く。両手でつくる輪の合図で準備完了、録音開始。 僕らは静かに氷の上に腰をおろし、無言のまま収録を続けた。
しばらくの後、我が部隊は、浅瀬のやや広い氷板の上へ移動した。氷板の端から覗くと海底が透けて見える。氷は座礁していた。うねりがあるのか喫水線がゆるやかに上下する。ふたたび録音を開始した。
いま流氷のアルバムをめくりながらテープの「オホーツク海の海明けの音」に耳を傾けている。名残の流氷が微かに揺れ、水紋が広がる風景がよみがえる。小川のせせらぎを思わせる音にチャプ、チョピン、トプンと断続的な音が重なる。氷塊を巡る潮の流れと融け落ちる水滴の音だ。ときたまバシャーンと氷片の崩れ落ちる音が入る。潜って餌を追う水鳥のクァーウ、ウ[というくぐもった声も聞こえる。
音の舞台は浅瀬の座礁氷の上に移ったようだ。潮が満ち始めたのか、うねりがやっ てきたのか、氷塊がぶつかり、擦り合うようなゴグーン、ズッズズと不規則な音が聞こえる。間を置かずに高い音律の水の流れる音が続く。
氷同士の押し合いの後、氷塊は新たに安定した位置を占めたのだろう。周期的な音に変わった。氷板は撓み、ギ、ギーッ、クーッ、クーと櫓の軋むような音を繰り返す。撓みの度合いではムーン、ウーン、キューッと低い音に変わる。遥か彼方で牛が鳴いているようなのどかさである。
流氷の海は比較的に静かである。流氷が浮防波堤となって、最大の雑音源である波の音を押さえてくれるからだ。ここでは流氷の音が主役である。
静寂の氷原には軋み合う厳しい音がある。岸辺の氷の隙間は、空気や海水を吹き出して管楽器となり、海明けの氷塊は超低音の打楽器となって交響曲を奏でる。
ところで流氷の音を録音した水中マイクロホンはアラスカ大学から贈られたもので、かなりの高感度である。それもそのはず、これは米ソ冷戦時代にソ連潜水艦探知に使われたものである。
かっての軍用機器でこころ安らぐ流氷の音を聴く というのも時代の移り変わりを感じさせる。
(初出:平成9年8月5日北海道新聞、日本エッセイスト・クラブ’97年版ベスト・エッセイ集「司馬さんの大阪弁(文芸春秋社)」 に掲載されたものに一部訂正、加筆)
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