2001.6.4号 07:00配信
序 以下に十字軍運動について、その諸原因また目的にかんして実際の経過にもあたりながら論述する。あらかじめまとめるなら、それは11世紀末から15世紀中庸まで続いた、中世ヨーロッパ、キリスト教世界の巨大な膨張と挫折の歴史であった。 本論 まずこの十字軍運動を成り立たしめた当時の社会的時代背景に関して簡単に述べる。 数世紀も続いた低温湿潤気候がようやく終わり、11世紀中頃より好天に恵まれるようになって、人々の生活状況は好転の気配を見せ始めた。黒死病の影響で極端に少なくなっていた人口も回復し労働力も豊富になったことと相まって耕地面積が広がり農業生産が伸びた。そのことにより人々の生活程度や社会的身分にも影響が現れた。奴隷階級はほとんどなくなっていたが、富者と貧者、農村生活者、都市市民、騎士、諸侯といった諸階層を巡って上昇や下降など大きな流動性が生じた。さらに農業生産の増大に伴って商業もふるうようになり、後これら市民階級の資力が十字軍運動の経済的支えとなった。 一方、人々の信仰生活も、ヨーロッパ各地に教会建築ラッシュがおこり、エルサレム巡礼熱もますます高まるなど、充実したものになっていた。しかもローマ教皇が、聖職者叙任権を巡って世俗権力と争うなど、すでにキリスト教は大きな力をもっており、ヨーロッパはキリスト教世界と呼びうる場所になっていた。つまりヨーロッパ社会は外へ向かって飛躍する準備を内に整えていたのであった。 次に対外的な状況を見てみよう。 東方においては当時サラセン帝国はすでにおとろえ、セルジュークトルコが覇を唱えていたが、それも、多くのカリフ国に分裂していた。そしてビザンチン帝国との間で、領土を奪い合っていたが、ヨーロッパ地域からも傭兵としてそれら争いに加わるものもあった。またスペインは8世紀以来回教勢力に占領されていたが、11世紀にはカスティーラ国などが反攻を始めていた。その際グレゴリオ7世やウルバノ2世といった教皇もそこの出身であるクリュニー修道院はそれら回教徒に対する反攻を積極的に支持していた。これらの出来事が十字軍思想形成の底流をなすものと考えられる。 以上のような政治的経済的背景があってようよう機が熟した時、ウルバノ2世の呼びかけがキリスト教世界に響き渡った。 1095年11月、教皇はヨーロッパ各地からフランスクレルモンに集結した数千の人々に向かって語りかけた。 「キリスト教の同胞、ビザンチン帝国がトルコ人に攻められ危機に瀕し我々の助けを求めている。その他の地域も彼らに奪われ続けこのままでは我々はやがて彼らに征服されてしまうであろう。また聖墳墓も異教徒達に蹂躙され、巡礼者は迫害されている。異教徒の手から聖地を取り戻すために、男は皆立ち上がるときである。」云々。 人々は大いなる感動の内に「そは神の御旨だ。」と応えた。 また「この聖なる戦いに参加したものは、この世の罪はすべて許される。」との宣言は人々を大きく励まし勇気付けるものであった。この「クレルモンの奇跡」と呼ばれる、人々の大きな感動の波はやがて広く各地に伝わった。もっとも教皇自ら、また使者達がすでに公会議の前年より各地に出向いて十字軍の勧説を行っており、会議後もそれを続けていたのであったが。 教皇の呼びかけは、あたかも雪山に雪崩が発生する際、その場にいる者の大きな声に誘発されて生ずると言われるような、だめ押しの一撃のようなものであったかと思われる。 その呼びかけにもっとも素早く反応したのは、隠者ピエールの勧説に立ち上がった名も無き人々であった。彼らはエルサレムがどこにあるかもわからず、何の訓練もないまま、「フランク人による神の御技」を自ら行おうと1096年春、長途の旅についた。しかし哀れにもほとんどの者は聖地の遙か手前に屍をさらすことになった。ほんの一握りの者だけが、遅れてやってきた騎士団の十字軍と共にエルサレムに入ることが出来たのであった。 その第1回十字軍といわれる、フランス南部や北部またイタリアの諸侯に率いられた四隊の十字軍は1096年末から1097年春にかけて続々ビザンチンの都、コンスタンチノーブルに到着した。いろいろ悶着はあったが、結局彼らは皇帝アレクシオスに臣従することを承知し、そのうえで彼らが今後回復する旧帝国領は皇帝から封土として与えられる、との約束をしたうえで戦場に赴いた。 セルジューク朝は三つに分かれていたがそれぞれが内紛状態で、一致して十字軍に対抗できない情勢であり、その間隙をついて十字軍はアンティオキアを落としイタリアノルマンの領主ボエモンはその地の君主に納まった。また別の十字軍指揮官ゴドフロアの弟ボードウアンはエデッサをとりエデッサ伯領を建てた。かくのごとく指揮官達はシリア地域で領土獲得に熱中し、エルサレム解放には関心を示さなくなった。 これら諸侯達の行動をみるに、彼らの十字軍参加の目的はもともとこの征服に主眼があったとも言えよう。また教皇の勧説のなかにすでにそれを容認する発言も含まれていた。「蜜のあふれるかの地は我々にとって約束の地である」と。 この後、騎士身分ではない巡礼者達が暴動をおこして聖地へ向かうことを強要し、ようやくレーモンに率いられた十字軍は、エルサレムにむけて進軍を開始した。やがてゴドフロアも遅ればせに参加して、1099年7月15日、激しい戦闘とむごい殺戮の中でついにこれを落とし初期の目的を達成した。 その功績でゴドフロアは建国されたエルサレム王国の守護者に任じられた。 その後1109年トリポリを占領し、トリポリ伯領もたてられた。 第1回十字軍は結局シリア地域に四つの植民国家を建てるという大成功をおさめた。その後目的を達した十字軍士の多くは帰国した。このことによって新興国はすべてあわせても千人くらいしか騎士がおらず、後、植民地経営に苦慮することになるであろう。 教皇はヨーロッパ各地に説いて三度に渡って数十万の住民をこの地に移住させようとしたが、道の途中でトルコ軍に倒され人口を増やすことは出来なかった。 1147年エデッサがトルコ軍の手におち、第2回十字軍が派遣されたが、現地諸侯とフランス王ルイ7世、ドイツ帝コンラード3世との対立によってなんらの成果もなく退却し、十字軍国家は領地を大きく減らすことになった。 1187年アユーブ朝の英傑サラディンによってエルサレム王国が落とされた。それを機に勧進され第3回十字軍は、ドイツ、フランス、イギリスの国王が指揮した豪華なものであった。しかしドイツ王フリードリヒは途上で溺死、軍は四散した。また後発したフランス王フィリップとイギリス王リチャードは協力しアッコンを取り戻したが、やがて両王の仲が悪くなりフランス王は帰国してしまった。その後リチャード王はエルサレム回復をもくろんだが果たせず、サラディンとの間にキリスト教徒の安全なる巡礼の保証を取り付け帰国した。 1202年、エルサレム奪還のため教皇イノセント3世によって提唱されたのが第4回十字軍であった。主にフランスの諸侯が参加したが、輸送に当たるヴェニス人に支払う渡航賃が足りず、その代償に彼らの要請でハンガリーのザラを落とした。暴挙を怒った教皇は十字軍そのものを破門したが、さらに十字軍はかねてから西方人の胸の内にくすぶっていた、ビザンチン帝国をその内紛に乗じて落とすに及んで教皇は破門を解いた。ここに教皇の十字軍派遣の目的とするものの一つが見えている。それはギリシャ正教を支配下に置くと言うことであった。 ここでイタリア諸都市の動きにいささかふれておこう。ジェノバやヴェニス、ピサなどの海港共和国は十字軍士や巡礼、軍需物資の輸送に当たっただけでなく、十字軍国が陸から港町を攻める際、彼らの艦隊は海から攻撃するなど彼らも戦いに参加していた。そして奪った港町に商館をたてたり移民者を送り込んだりと東方貿易の利権獲得に都市間で激しい抗争を繰り返していたのであった。 さて、数え方にもよるが、5,6,7,8回と十字軍はエジプトなど東方に向かうが、エルサレムの解放はならず、ついにはシリアの十字軍国家はエジプトに興ったマムルーク朝、その後興ったオスマントルコによってビザンチン帝国を含めて完全に滅亡したのであった。十字軍は他に番号のついていないもの、子供が中心になったもの、また国内の異端討伐に向かったものなどがある。その原因や目的に関して、一言二言で言い表せるものではないが、以上の概観に基づき、あえて以下のようにまとめてみよう。 結論 ローマ教皇庁は教皇を頂点としたキリスト教世界の保護と拡張を目論んでいたであろう。 庶民は己に苦行を果たすことにより、神やイエスに対する信仰の純粋性確認を目的としたであろうし、あわよくば聖遺物の一つも手にしたいとのぞんでいたであろう。 王や諸侯、商人達は、聖戦という大儀でくるんだ自らの欲望実現を目的としていたであろう。 つまりローマ教皇によって主導され、民衆の素朴な信仰心に支えられたなかで、王侯貴族の領土的野心と支配欲、イタリア海港共和国民の商業的利権獲得欲が醸し出したヨーロッパの膨張運動であり、ヨーロッパ側から見ての対回教徒聖戦であった。 そして中世ヨーロッパの社会的政治的状況を背景に、人々のキリスト教信仰に基づいた上記様々な思惑が一体化した不可思議な気分が重なって、この壮大な軍事的運動の根本原因をなしていたと言えるのではないだろうか。 了 |