2002.2.21号 07:00配信


世界史

アッシリア帝国


 序論

 以下にアッシリア帝国の興亡について語る。 このレポートは、まず新アッシリア帝国建設までの前史を概観する。次に前10世紀末から本格的に対外膨張し前9,8,7世紀と帝国最盛期に向かいそして急速に滅亡に向かった流れをみる。その後、なぜ巨大帝国が建設されえたのか、アッシリアの政治、軍事、経済等について考察するという文構造をもって描かれている。


 本論

  古、中アッシリア

アッシリア帝国が栄えた土地には旧石器時代以来絶えず人間の活動があり、前六千年紀には灌漑によって形成された村落が出現した。前三千年紀の前サルゴン期には東セム系遊牧民が定着原住民の上に支配者として登場した。この時期に北メソポタミア南端のティグリス川西岸に都市アッシュールが建設された。 しかしこの頃の詳しいことは不明である。  前二四世紀、アッカド王国を建設したサルゴン一世はメソポタミアに覇権広げ、三代目の王ナラム=シンの時代に最も繁栄した。彼は自らを「四界の王」と称した。この時以来現在までこの地には紆余曲折を経ながらもセム人の歴史が続けられることとなった。

 前二二世紀にシュメル人のウル第三王朝が建てられた。前二一世紀末に滅んだのであるが、この王朝時代にここで主役のアッシリア人が歴史の表に姿を現してきた。前20世紀の半ばからの200年間は具体的な社会像が資料的に明確であり、こ時期を「古アッシリア時代」と呼ぶ。古アッシリア時代のアッシリア人は活発な交易経済活動によって知られている。
 やがて前一四世紀中葉ミタンニがヒッタイト帝国に滅ばされると、アシュル=ウバリット一世に率いられたアッシリアが独立した。
 前13世紀中葉のトウクルティ=ニヌルタ1世の治世によって中アッシリア時代は最盛期を迎えることとなった。 
 こういった流れの中で前一七00ー1100年を王国時代といい、前1100年以後、帝国の時代という。 
ティグラト=ピレセル1世(前1114ー前1076)は中アッシリア以来衰微していた国力を建て直し、周辺諸国への精力的な軍事遠征を通して支配権の拡大につとめた。特に西方ではアラム人を駆逐するための遠征を繰り返し地中海まで達したこともあった。彼はまたバビロニアに侵攻し首都バビロンを焼き払った。しかしその治世中に発生した大飢饉とアラム人の大量流入はアッシリアの国力をそぎ、次のアッシュル=ベル=カラ(在位前1073−56)以後前10世紀後半に至るまでアッシリア史料は沈黙する。

    新アッシリア

 前2000年期の終わりにシリア砂漠周辺からシリアとメソポタミア北部に進入し多数の小国家を形成したアラム系諸部族のためにアッシリアの支配領域は一時急速に失われた。しかし前10世紀の終わりから失われた固有領土を回復するという明確な政治イデオロギーのもとにアッシリアは軍事遠征を繰り返し、次第にその勢力を回復した。この軍事行動はアッシリアの中核にごく近いところから始まりやがて遠方に及んだ。前9世紀半ばに
アッシュル=ナツィルバル2世(在位前883−859)の治世のおわる頃にはその領土は 西はバリフ川近郊、北はティグリス川上流域、東はザグロスとクルディスタンの山岳地域に達し、南はバビロニア王国と境を接するまでに広がっていた。その範囲内至る所で町が再建されアッシリア人が植民された。以後150年アッシリアの首都となるカルフもこの時期に建設された。
 その跡をついだシャルマネセル3世(在位前852−824)はユーフラテス川大湾曲部を奪い取り豊かなシリア諸国をはじめアッシリアを取り巻く地域から富と物的人的資源が略奪と貢献によってアッシリア中央に集中された。
前8世紀の半ばティグラト=ピレセル3世(在位前744−727)の即位とともにアッシリアの拡大は真に帝国期と呼べる段階に入った。王は北方のアルメニア高地から周辺に勢力を伸ばしていたウラルトウ王国を封じ込めシリア、アナトリア、ザグロス地域におけるアッシリアの覇権を明確にした。シリアにおいてはアラム系、新ヒッタイト系諸国を次々滅ぼしてアッシリアの行政州として取り込み領域を大きく西に拡大した。南方ではバビロンの王権を掌握しバビロニア王を兼任した。 サルゴン2世(在位前721−705)が即位するとバビロニアとシリアにおいて反乱がおこる。しかしサルゴンはこれを鎮圧しさらに遠方へと州行政による領域を拡大し1時期失われたバビロンの王権を回復した。
しかしその後もバビロン統治はアッシリアにとって最も難解な課題として残り、結局はバビロニアによって帝国は滅亡の淵へ沈められることとなったのである。
サルゴンの子センナケリブはニネベを帝国の首都として再建しそこは滅亡まで首都として機能した。
 西方においてはエサルハンド王はパレスティナ地域の反乱をあおるエジプトにたいして長駆遠征した。前671年メンフィス落としたが前669年再度のエジプト遠征の途上病没した。その子アッシュル=パニバル(在位前668−627)に引き継がれ、かれはテーベを占領しナイルデルタの小王国をアッシリアに従えた。やがてエジプトとは和解したが、以後エジプトは反アッシリア行動をとらなくなった。
前王エサルハンドはバビロニア王としても統治していたが、王位継承に当たりアッシュル=パニバルにはアッシリアを、長男シャマシュ=シュマ=ウキンをバビロニア王に任命した。前652年長男はアッシリアに対して反乱を起こした。4年後バビロンが陥落して決着がついたが、これを期に王はエラムの主要都市スサを落としエラムはメソポタミアの政治世界から完全に駆逐された。
 いくつかの大事件を経験したがアッシリアの帝国支配は前700年からの70年間は安定していた。この間の遠征は帝国周辺部起こる問題解決のためであり帝国内の平和は脅かされることはなかった。

  帝国滅亡 

しかし前627年にアシュル=パニバルの治世が終わると帝国は瞬く間に崩壊した。
バビロニア、メディア連合軍の前に前612年までにアッシュル、カルフ、ニネベは次々と陥落した。その後王アッシュル=ウバリト2世がエジプトの援助を得てニネベ奪回を試みたが失敗し、アッシリア帝国はここに終わりを告げたのである。
アッシリアの経済
 巨大な軍事力を支えるにはなんといっても巨大な経済力が要求されるが、アッシリアの経済はいかなるものであったのだろうか。
アッシリア社会は地理的条件から農耕社会ではなく交易によって力を蓄えた。早くも前19世紀には小アジアに商業植民地キュルテペやハットウサが建設され、本国と盛んに交易がおこなわれていた。
 時代が進んで軍事力の整備増大とともに北方貿易路を確保し、一方シリア等を属国としてからは小アジアの鉄、アマヌス山脈の銀、レバノンの杉を手に入れた。経済力が軍事力を強めまた軍事力が経済力を高めるというように回転し、アッシリア中央には属州、属国からの奉納品、交易路への税徴収等によって膨大な富が集積されていったのである。

政治、軍事

アッシリア人の本拠地「アッシリア三角地帯」には自然的な国境線がなく常に外からの危険にさらされていた。それ故そこでの生活のためには戦うと言うことは当然の行為であり好戦的な気質を作り上げた。
 バビロニアやヒッタイト、ミタンニなどとの抗争、講和、また征服といった軍事、政治活動の中で当時の軍事知識を更新していった。 中核をなす陸軍は体格の良い訓練の行き届いた農民からなる常備軍であった。貴族階級は騎兵部隊となり裸馬をあやつり弓矢を武器にしていた。馬に引かせた戦車には御者と射手と楯兵の三人一組で乗りこみ機動力と攻撃の激しさを見せつけた。他に輸送隊、工兵隊も組織され兵站、都市の城壁破壊や渡河用の船の建造などに当たった。
 宮殿の浮彫等の史料によると、敵対する町々は徹底的に破壊され敵将たちは串刺し、生皮剥ぎなどの残虐な方法で処刑された。これは見せしめ行為であり、敵勢力の戦意喪失を狙ったものであった。
 また占領地の住人を根こそぎ他地域へ移動させ、そこにはアッシリアや他からの捕虜を入植させるといった敵方の勢力そぐための過酷な方法も採られた。この民族強制移動が後に大きな融合文化を生み出すことになった。
巨大なアッシリア帝国ではあったが君主政の組織は実は安定性欠いたものであった。
陰謀、王位を巡る争い暗殺は日常茶飯事であった。しかし選ばれた家の者だけが王位につき、その歴代の王は戦略、戦術にたけ、統治力、指揮力、残虐性を併せ持っていた。
 アッシリアの力は君主の能力によるものであったと言えよう。

  滅亡の要因

アッシリアは巨大な領土と強力な政治力を手に入れ遠方のエジプトや文化先進地バビロニアを支配した。しかしこれらの地への深入りは強力な反発をまねきしばしば反抗をまねいた。その都度軍を動かす内に軍の疲弊が進み、結果として北方や北東方面が手薄になり、メディア人、カルデア人、スキタイ人などの外敵に付け入る隙を与えたのであった。
 もともとアッシリアの目は豊かな獲物に引きつけられ南や西にばかり向けられており、北、東にはほとんど注意を払わないでいたことも重なっていた。
そして先述のごとく巨大な帝国は最盛期から一気に奈落の底へ落ち込んで行ったのであった。


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