2001.6.5号 07:00配信


日本史

武士の発生と武士政権樹立


(序)
 
 以下に武士の勃興から武家政権の樹立までを論述する。これには9世紀中庸からから源頼朝による鎌倉幕府樹立までの12世紀末から13世紀初頭までを概観することになる。限られた字数の中での論述のため、武家政権成立に至るいくつかの節目となる出来事を取り上げることのなかで論は進められる。

 (本文)

 「武士は草深い農村から現れた」という命題があるが、それは9,10世紀の律令制体制から王朝国家と呼ばれる国家体制変化の課程において、兵(つわもの)達が国衙に結びつきながら、武士へと変貌していった経過を眺めるならそれは真実である。
 9世紀中庸から、中央集権体制であった律令国家は変容し、10世紀初頭の延喜国政改革により地方支配は国守に大きな権限を与える受領請負制が採られるようになった。
 国守達は、租税調庸取り立て、完済のために郡司や富豪層に責任をもたせ、不足の際には彼らの私物をもって補填させた。その苛酷な手法に反抗して、各地で国守を襲撃したり、他国の京進物を奪ったりと、群盗海賊が跳梁するようになった。この九、十世紀の国制改革とそれに対する反抗という争乱の中から鎮圧する側の国衙と結びついて武士は歴史に登場した。この状態を国衙軍制という。

  承平、天慶の乱

 この10世紀初頭の大きな反乱事件は、反乱を起こした平将門、藤原純友、また鎮圧にあたった、平貞盛、藤原秀郷、小野好古、源基経らによる武力の計り知れない威力は、宮廷貴族たちに大きな衝撃と恐怖をあたえ、武士の政治的社会的地位を大いに向上させる役割を果たした。
 貞盛、秀郷、将門その他この争乱に関わった者達が後の源平を中心とした武士団の祖となったのである。

 源平の棟梁化

 かくのごとき世の様々な争乱の鎮圧行動を通じて、まず地方軍事貴族といわれる源氏がその貴種の故、各地に起こった武家を個人ネットワークで組織化し棟梁としての地位を固めていった。その大きなきっかけは、平忠常の乱(1028年)、また続いて陸奥、出羽地方におこった前九年の役であり、後三年の役であった
 この時すでに、武士勢力は摂関政治、院政といった国家体制変化の中で、国衙に属してはおらず、院や摂関家の命令のなかで行動するようになっていた。
 大きな力を持ち始めた源氏に対し、白川法皇は平貞盛の末、平正盛、忠盛父子を重用するようになり、ここに東国においては源氏、西国においては平氏が巨大武士団の棟梁として並び立つようになった。また急速に拡大する寺社王家など権門勢家の荘園と公領との争いを中央で裁かなければならず、南都北嶺の悪僧達の強訴、乱暴に対抗するためにも、武士団を都に引き入れざるを得なくなった。
 こうして草深い田舎で発生した武士が、権力中枢に近ずいていったのである。

 保元、平治の乱

 天皇の継承をめぐる王家の権力争い、また力衰えた摂関家の相続をめぐる内紛により、両勢力が、源平の武力を2分して鳥羽上皇死亡直後、都を舞台に戦ったのが、保元の乱(1156年)である。この戦いでおおいに働いた源平武士勢力は己の力は院や摂関家を左右できることを確認した。
 乱後、再度院と天皇との間に、加えて近臣達の間にも権力争いが生じた。後白河院寵愛の藤原信西,信頼間の争いである。
源義朝は先の乱の際、恩賞において平清盛と差別されたことを恨んでおり、信頼に同調し信西をたおした。そして後白河法皇や二条天皇を幽閉したが、20日足らずの後、平清盛によってうち破られた。これが平治の乱(1159年)である。

 二つの乱に勝ち残った平清盛はついに太政大臣にまで上り詰め、また一族の者も多く公卿に登用され、政治、軍事の実権を握った。そして清盛打倒をめざす「鹿ヶ谷事件」をきっかけに全権を掌握した。これはまさに平氏による武家政権といえよう。しかしこれも翌1180年、全国各地に内乱が生じ、伊豆に流されていた源頼朝も挙兵し、貴族化した平氏武家政権は1183年、義仲軍におわれ都を落ち、義経に攻められ1185年壇ノ浦にほろんだ。
 ここに代わって源頼朝による貴族化しない武家政権、鎌倉幕府がこの数年間続いた日本国内乱という混乱の中から巧みに形成されていった。
 そしてこの頼朝を主人にした御家人連合の武家政権は以後江戸幕府にまで続く数百年にわたる武家政治の始まりとなった。時代の巨大な変革期の混乱の中で、義仲や義経など多くの武将が同じ夢を見ながら敗れ去ったのに、頼朝が短期間に全国支配の体制を整えることができたのは、「抜けた人」頼朝の天才的戦略に加えて、大江広元、三善康信ら有能な行政マンを京都から迎え入れたことが大きかったように思われる。武力を背景にしながらも、次々朝廷から権力奪取し得たのには朝廷の権謀術数を知り抜いた彼らの助言、助力が大いに威力を発揮したことであろう。
頼朝以後、幕府内部に続発する権力闘争を乗り切り、さらに承久の乱を勝ち抜いて執権北条氏を中心として武家政権は安定した。
 以後武家政治が中世、近世へと日本の歴史を大きく動すことになったのである。


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