1999.12.11号 09:30配信


Home


日本史

課題 平安時代から室町時代にかけての外交について



 以下に平安時代より中世にかけての対外交渉について、通史的に語り、その後それらの特徴について思うところを述べる。
 参考文献としては、  
岩波講座 日本歴史 古代4 旗田 巍 335Pから370P、同中世2 中村 栄孝 1Pから51P(1967年発行)
 中央公論社 日本の歴史 4,5,6 竹内理三等を参照している。

 平安時代
 唐に習って律令制をほぼ完成した我が国は、時あたかも唐帝国の衰退の時期とも重なって、すでに唐から学ぶものはないとの菅原道真の意見を入れて八六〇年遣唐使を廃止した。その後は日本船の渡航も禁止し、しばらくの間は、中国商船が我が国に来航するばかりであった。その扱いは太宰府の専権事項となった。しかし平安中期以後律令制が崩れてくると、日本の商人たちは海外渡航をし、唐に変わった宋王朝と交易を開始した。
平安時代末期に至り、平清盛が政権を獲得した時期のみ例外的に積極的に通商を行ったといえる。しかしこれとても公の使節を交換するといったものではなかった。
 
 鎌倉時代
 平安時代にならって太宰府が中国や朝鮮との通商を取り仕切っていたが、幕府が公式に国交を結ぶというような交渉はなかった。
 九世紀から十三世紀にかけては中国では北方諸民族が勃興し、次々王朝をたて、我が国に朝貢するように申し入れてきたが、幕府や朝廷はそれらをことごとくこばみ通した。
 やがて千二百七十年、中国をほぼ手中にした元帝国から国交開始の使者が来たがこれをも拒み続け、元は三万余の軍勢をもって我が国に襲来した。文永の役である。それでも国を開かず再度の十五万という大軍の元寇をまねいた。弘安の役である。この二度の来襲ともに台風、大嵐などに妨げられ元帝国はその目的を達することはできなかった。
 この鎌倉時代をつうじても朝鮮、中国との交渉は荘園領主や商人達が主に対外交渉をなしていた、と言える。
 
 室町時代
 三代将軍、足利義満の時にいたり、元の後に成立した明朝からの使者を都へ迎えいれ、我が国からも公式の使節を送り国交はなった。このときは我が国の伝統的な対中国対等意識、つまり対等であるとの意識に基ずいたものではなく、明国に朝貢したとして国内には批判の声があがった。しかし義満は「日本国王」との称号を与えられ、以後諸外国との交渉は、将軍が国の元首という立場に立つこととなった。明国の対外交易は遣明使に付随したものとしてしか認めないというものであった。また当時激しさを増して中国沿岸を襲っていた和冦と区別するために、公認の貿易船には勘合符を発行しそれを使った交易だったので「勘合貿易」と呼ばれた。 
 また明国は自国の船が海外に渡航することは禁じていたが、中国の貿易商達はベトナムやさらに遠方のアラビア商人などとも交易を行っていた。またその交易に日本の博多や堺の商人をも参加させたので、それらの中から有力な豪商が育ってきた。この遣明使は幕府の任命を得て、細川氏や大内氏などが中心に行われていた。
 
 戦国期
 室町末期は各地に起こった戦国大名達により国体は大きく変質しもはや律令制の世ではなくなっていた。西欧列強がアジアに進出し時代は近世にさしかかった。諸外国との交渉も力を付けた商人や諸大名の手ににぎられ、その中から織田信長が巧みな戦略をもって政権を奪取していったのである。

 九世紀から十五世紀までの対外交渉の特徴についての考察
 
 平安期に国内の体制が整い、朝廷は国家運営の自信を大きくしたと考えられる。遣唐使の廃止以後、足利義満の時まで、我が国はあたかも鎖国した如く中国、朝鮮に対している。その特徴を、あえていうなら、ひどく傲慢であり大胆でもある。しかしそれが可能だったのは我が国が、諸外国と海をへだてているという、地政学的な用件が大きく作用しているせいではないかと私は考える。北方諸民族の王朝を無視し続けても国家そのものの存立になんら影響なく過ごせたのもひとえに、この地理的条件の賜に他ならない。我が国の対外交渉のバックグラウンドにはいつも「外国は滅多なことでは攻めてはこない。」という安堵感が、その交渉を特徴ずけたものと思われる。


注意

このレポートは一つの雛形として公開されています。慶應大学通信部に席を置く者は決して使用しないで下さい。不正行為と見なされます。

   




indexnext掲示板


Home
(C) 1999 Webnews
ご意見・ご感想・お問い合わせは webmaster@webnews.gr.jp まで。