条約改正は明治政府の大きな宿願であった。安政時代に結ばれた条約は、当時日本は劣等国と見なされ、二つの点で不平等のものを恫喝のうちに飲まされたものであった。
第1に、定められた関税がきわめて低く、そのため安価な外国製品が流れ込み日本の産業を押しつぶした。日本は関税を自主的に決められなかったのである。(関税自主権がない)
第2に、在住する外国人が犯罪を犯しても日本はこれを裁判にかける権利を持っていなかった。外国人はそれぞれの国の領事が裁判をし判決を下したのである。(領事裁判権を認めた)
以後、関税の権利を税権、領事裁判権を法権と呼び、論をすすめることにする。
明治新政府は寺島、井上両外務大臣を通じ様々欧米列強に働きかけたが、国内法の不整備もあり、また弱小国の意見として、聞き入れられることはなかった。
1893年(明26)、時の外務大臣、陸奥宗光は日英間の条約改正さえなれば、他国との交渉はスムーズにすすむものと考え、イギリスとの交渉を開始した。そのころイギリスはフランスと組んだロシアの動向を気にかけており、当初、清国をロシア南下阻止の防波堤にする事を考えていたが、清国の実力に疑いを持ち、ようやく力を見せ始めた日本との関係を重要視するように変わりつつあった。
早くから朝鮮を我が属国にせんものと野望をもっていた日本は、この条約改正にそのことの成否をかけて熱心に働きかけ、ついに両者の利害が合致し1894年(明27)法権を回復したのである。この時点では税権はまだ回復してはいなかった。この条約改正は同時に清国や朝鮮に対する日本の干渉を暗黙のうちに認めるものでもあった。
日本は後顧の憂いなく、条約改正の4日後には行動をおこし、朝鮮王の王宮を押さえ「東学党の乱」を口実に同国に出兵していた清国軍に対する戦闘を開始した。かくして日清戦争が始まった。
歴史に「もし」は許されないが、もしイギリスが条約改正を拒み、極東地域の混乱を好まなかったとすれば、日清戦争をおこせなかったかもしれない。条約改正が戦争を招来したとも言える。
もう一つの不平等条約である税権が回復したのは、1911年(明44)であった。
これは日露戦争に勝利をおさめ、我が国は欧米諸国から強国として認められたことによって成し遂げられたともいえる。
もちろんこれだけがその動機ではないが、欧米列強の覇権争いが複雑に絡み合う当時の国際情勢の中で、不平等条約改正によって日清戦争が可能となり、かつ日露戦争によって、条約改正が成った、という論も成り立つであろう。
歴史の巡り合わせとは、まこと不思議なものである。 |