2004.1.6号 11:00配信


地理学U

地 誌


  
  流氷と紋別市の漁業、農業 
 以下に「流氷」というオホーツク海特有の自然現象の絶大なる影響の中で営まれる我がふるさと、紋別市の漁業、農業に焦点を合わせ地誌を記す。
 流氷に関する論述だけでも規定の字数を超えてしまうおそれがある故、それぞれの内容に関しては要点のみの記述になることは避けられない。

 本論
  紋別市街中心部はおよそ東経143度21分、北緯44度21分にあり、北海道のオホーツク海に面する弓形地形の中央部に位置する、面積はおよそ830平方キロ、人口28000人の街である。(添付資料2参照)
 例年1月中旬から3月末までのほぼ2か月半、前浜は流氷に覆われ基幹産業である漁業は船を陸地に揚げ冬眠に入る。また農業も畑地は雪に埋まりその下では秋まき小麦がかろうじて生き延びているばかりであり、酪農家も牛舎に干し草を囲い込みじっと春を待つのである。
 このオホーツク地方に君臨し一切を支配する流氷は如何なるメカニズムで発生するのか、以下に略述する。

1)流氷発生のメカニズム
 オホーツク海は北海道、アジア大陸東端、サハリン、カムチャッカ半島、千島列島に囲まれた巨大湖のような海である。そこに3000キロの長さを持つアムール川から大量の真水が注ぎ込まれる。(資料1参照)
 その結果、塩分濃度の薄い層が50メートルの深さでオホーツク海表面に広がり、冬季に入るやシベリア気団から吹き出される寒風によってその表層部分にのみ対流が起こりマイナス1.8度になったとき海は凍り始めるのである。そして北風に押され南下し北海道沿岸に押し寄せてくる。沖合にサハリン付近で生じた流氷が到達すると海岸との間が凍り海氷が一層発達する。その後は風のまにまに離岸接岸を繰り返して3月末頃から融解を始め姿を消していくのである。(資料1参照)

2)流氷と漁業
近年になって流氷に対する様々な視点からの研究により、かつては「白い悪魔」と恐れられ嫌われた流氷が、実は世界有数の漁場であるオホーツク海を形成し維持しているのだと言うことが明らかになってきた。
 以下に流氷の作用をいくつかあげる。
(1) 流氷の下は日光が届くので、3月に入ると流氷の海中側には大量の植物プランクトンが成育しているのが認められる。やがて氷はあちこちを漂いながら融けていくのだがその過程で、自らが育てた植物プランクトンを広い範囲にまき散らすのである。それを動物プランクトンが追い、順次食物連鎖が形成されていくのである。
(2)またおよそ3ケ月間の自然による休漁期が設定されることにより資源の回復がはかられることになる。
 (3)また一切の波を押さえ込む氷の下で産卵された新しい命は生育の為の平和な時間を持つことが出来るのである。
 
 以下にオホーツク海が豊かであることの実例を挙げる。
 2月末、紋別市で内外の科学者100名以上が参加し第17回北方圏シンポジュームが開かれたが、ここで興味深い研究結果が発表された。
 紋別産マガレイは札幌の魚市場で高級ブランドとして扱われているが、生まれは留萌沖の日本海である。それが宗谷暖流に乗ってオホーツクに入り着底し生育する。そして日本海に残ったものは体長15センチ程度にしかならないがオホーツク育ちは成体で27センチになる。マガレイやクロガレイ、ホッケ類は産卵には暖かい日本海、育つのは餌の豊富なオホーツク海と言うように使い分けていると言うわけである。
 また別紙資料3にあるように流氷日の多寡とサケ漁獲量とのあいだには相関関係が見られる。ここで言う「流氷日」とは北海道大学流氷研の網走、紋別、枝幸に設置された半径60キロメートルをカバーするレーダーに映ずる流氷量が範囲内の50パーセントを超える日のことである。(資料2参照)
これは流氷の少ない年は中冷水と呼ばれる冷水帯が十分に形成されなかったり、深く潜り込んで流れている宗谷暖流が早々と表層部付近部まで浮き上がって流れるため暖水を嫌うサケが沿岸に回遊するのを妨げるからであると考えられている。
 一方オホーツク海は流氷が形成する豊かな海である故の問題点もある。それはその漁法が問題となり、各地では大半姿を消した大型底引き船が紋別港を基地にまだ五隻も操業を続けていると言うことである。しかしこの底引き船による漁業はいずれ廃止されなければならないであろう。なぜならその漁法は海底の魚礁を破壊し資源枯渇の原因になっていることがすでに明らかであるからだ。
 この海の豊かさを表す別の指標がある。
それは漁業就業者数である。市の人口最盛期である1960年には1700人であり、現在では850人と、その数は半減しているが、これは200海里専管水域設定による北洋漁業が終焉したことがひびいているものである。しかし後に触れる農業においては就業者数はここ40年間に6分の1以下に激減しているのと比べるなら、オホーツク海がしっかりとこの街の人々を養っていることがわかるのである。特に現在は育てる漁業と言われる、ホタテ、カキガイなどの養殖業が軌道に乗り安定した収益をあげている。そして流氷は今や街の貴重な観光資源として砕氷観光船の就航とあいまって国内はもとより東南アジア諸国からの観光客を迎えるようにもなっているのである。
 次に漁業にとっては大きな益をもたらす流氷がもう一つの基幹産業である農業にはいかなる影響を与えているのかに関して考察する。

 3) 流氷と農業
漁業にとって流氷のもたらすメリット面をおおく取り上げたが、こと農業に関する限り、流氷到来によるメリットはほとんど見あたらない。農業にはある程度の高温が必要だが、寒気というエネルギーは作物の生育にブレーキを掛ける。紋別市の年平均気温は6度c前後であり、作物が盛んに生長する6月は12度、7月でも19度くらいにしかならない。 流氷によって冷やされたオホーツク海には低温で湿潤なオホーツク高気圧が居座り3年に1度は冷害をもたらすと言われるほどである。例年6,7月には冷たい海霧が沿岸地域を包み込む。
先述した「流氷日」と馬鈴薯、甜菜の収穫量の相関図が資料4である。
 1970年から86年までの流氷日の平均は50日。また甜菜の平均収量は10アールあたり4400キログラム、ジャガイモの平均収量は2700キログラムである。
 流氷日が0日であった1976年の甜菜は10アールあたり4960キログラム、ジャガイモは10アールあたり3300キログラムで、ともに高い収量を示し、特にジャガイモ収量は17年間の最高値であった。
 また流氷日が92日と最も多かった1981年の収量は甜菜が10アールあたり3110キログラム、ジャガイモが1800キログラムでともに最低であった。
 以上の統計表からも冬季の流氷量が沿岸地域に於ける農作物の収量にかなりの影響を及ぼしていることが見て取れるのである。

 4) 重粘土地帯
 この地域の農業にとって、流氷と共に相乗効果的に障害となるのは重粘土と言う土質である。(資料2、北海道の重粘土地帯参照)紋別市を中心に海岸に沿って80キロほどの地域に重粘土地帯が広がっている。この土質は水はけが悪く、また日照りが続くとコンクリートのように堅くなる。長期に渡って暗渠を張り巡らし、客砂や客土による土地改良実施の結果、小麦、馬鈴薯、甜菜、飼料用穀物などが栽培されているが、現在畑の面積は最盛期の農業用地の6分の1くらいに減少し、1970年頃から盛んになった酪農の牧草地に転換されている。ただしこの重粘土地に適合した作物がある。それは甜菜である。他の火山灰系の土地の生産物に比して糖度が高いのである。また牧草と甜菜の輪作はそれぞれに好影響を与えあうと言われそのような土地利用が奨励されている。
 以上に見た如く紋別市から北のオホーツク沿岸地方は畑作農業には不適な地域である。
 事実、戦後開拓者達が血の汗を流すようにして開墾した土地も今では大半は元の森林に戻るか、牧草地に姿を変えてしまっているのである。
そして酪農業は一時期順調に規模を拡大しながら安定的な経営を続けていたが、乳製品の自由化、また後継者問題などで離農者の数は年々増加しているのが実状である。そこへ昨年来の狂牛病(牛脳海綿症)騒動によって北海道の酪農業は甚大なる被害を被ったのであるが、紋別市域でも2万頭余の牛を飼育しているが20数億円の損失があったとされているのである。

結論
流氷の影響という視点でふるさとの漁業、農業を概観してきたが、あらためて流氷の威力に驚かされる。この街はかつて住友鉱業の鴻之舞金山が操業し、そこだけで最盛期には1万人からの人々を抱えていた。1970年ころ閉山となりその地域はすでに森の中に沈んだ。
 その人数を除くと紋別市は過疎化の進行はさほど大きくはないと言える。農業世帯の激減に見舞われながらも、この30年間で4000人程の減少である。それはなんと言っても豊かな海に支えられているからである。200海里問題などで漁業の構造も相当変質したが、ホタテ養殖などに力をいれかつてに劣らない生産額を維持しているのである。
 これからもこの流氷という巨大なエネルギーを意識的に有効利用し産業に活用していくことがこの街の生命線となるに違いない。
 私もその方面で知恵を提供したいものと日々思案を重ねているのである。
         了


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