谷中村のこのことは、ちょうど日露戦争がはじまるころの事件でした。国民は小さな国が巨大なロシアを相手に戦うというので興奮し、足尾銅山の鉱毒問題どころではなかったようです。「谷中問題は日露問題よりも大問題である」と当時、国会議員だった田中正造は訴えました。
村人は県の役人から『お前達がここを立ち退くことがお国のため』と脅され、『立ち退きに応じないものは天皇にたてつく国賊だ』などと、ひどい言葉をあびせられたそうです。県や国は、谷中に貯水池をつくりここに鉱毒を溜めれば東京には被害がないと考えたのです。帝都東京を鉱毒の洪水から守ろうというわけで、鉱毒事件の原点をうまくすりかえました。
貧しい農民はわずかな買収金も喉から手がでるほどほしかったのです。『村を捨てることはお国のためじゃない、村があって国がある、村々が集まって日本国という国がある』と正造は説得したのですが、わずかなお金にもすがりつきたい村人の気持ちを思うと無理に引き止めることもできなかったのが本当のところでしょう。とぼしい家財道具を牛車や大八車に積み込んで村を出ていったのでした。
明治44年に政府は谷中の残留民と谷中を追われて近隣の町村に移っていった旧谷中村民に北海道に移転するよう勧告しました。「勧告」というと聞こえはいいけど、ほとんど「脅し」であったと、当時を記録した本には書かれています。明治44年4月7日、237人の老若男女は「栃木県移住民」と書かれた白い布を着物の胸に縫い付け、わずかな荷物をもって臨時列車で小山駅を出発して行きました。北海道の沃野に広大な土地がもらえるという言葉を信じてです。移住先は北海道の北の果てサロマの原野。陸別、野付牛(北見市)、屯田兵村、留辺蘂の峠を越えて、一行はサロマに到着しました。
北海道開拓はお国のためといわれて共同小屋を建てて住んでいましたが、話とは違うあまりのひどさに谷中村近辺に戻った人たちもいました。現在残っている2代目、3代目の人たちは大規模農業や酪農をして生活しているということでした。(栃木県側の取材:ようこ/参考文献:佐江衆一著「田中正造」)
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共同墓地跡 |
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共同墓地跡 |
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延命院跡 |
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梵鐘 |
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足尾鉱毒事件で天皇制政府は、足尾町にあった古河銅山から流れ出る鉱毒を留めるため、谷中村をつぶして遊水池建設を計画。住民とともに鉱毒反対をたたかった田中正造は谷中村強制廃村に反対しました。梵鐘はたたかいの拠点となった延命院にあったもの。明治39年の廃村とともに行方のわからなくなっていた梵鐘は昭和61年に埼玉県幸手市の火の見やぐらで発見され谷中村の遺跡を守る会では町を通じて返還藤岡町への返還を求めていました。「公害の原点、栃木県藤岡町の渡良瀬遊水池に23日足尾鉱毒事件の旧谷中村の延命院の梵鐘の音が95年ぶりに響き渡りました」(2003年1月25日、谷中村たよりより)
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渡良瀬貯水池(谷中湖) |
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渡良瀬川 |
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当時の(明治37年)買収金額は
金 四拾八万円也
戸数 三百八十七戸
人口 二千五百余人
明治39年7月1日栃木県当局は谷中村議会の反対決議を無視し谷中村を藤岡町に合併せしめた。県当局は堤内に残留する16戸の住民家屋を強制破壊し住民百余人は雨露に晒されることととなった。大正6年2月限り残留民は各町村に移住し谷中村は名実共に滅亡した。
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